■「自分自身をいつも試したかった」
グラハム・スタックは決して簡単な道を選ばない男だった。
アーセナルとの新契約を拒否したり、半年間家族を置いて未知の国インドに飛び込んだりと、この38歳は常に快適な場所から外に飛び出すことを求めつづけていた。
この元GKは「僕は決してひとつの場所に留まる人間ではなかったね」と、『Goal』の独占インタビューで語る。「常に自分自身を試したかったんだ」
これが、アーセナルでキャリアをスタートした2000年から12もの異なるクラブを渡り歩き、最後はリーグにすら属さないイーストレイで2018年に引退したスタックの基本的な姿勢である。
スタックは常に新しい何かを始めていなければ幸せを感じなかった。
「常にどこかに行ってプレーしたくてたまらなかったね」と話す。「ローン移籍を次々と繰り返した僕のキャリアにも表れているね。自分自身をいつも試したかったんだ」
昨年引退し、現在はワトフォードのGKアカデミーのヘッドを務めている。フルタイムの役割で、4人の子どもを持つ父親としての生活のバランスも保っている。また、平日は放課後にサッカークラブを運営し、学校が休みの日にはチョーリーウッドで自身のアカデミーを率いている。スクールには113人の子どもが所属し、今も力をつけ続けている。
こう聞くと、スタックにはそれ以外のことをする時間など残されていないと思うかもしれない。しかし、実際はそうではない。
彼はこの2年間、スタッフォードシャー大学でスポーツ執筆と放送の学位取得に取り組んだ。コースには実習も含まれていたため、休日を楽しむことはほとんどできなかった。しかし、それこそがスタックのキャラクターであり、大学に飛び込んだあと、先月になってついに学位を取得した。
「キツかったよ」と振り返る。「深夜も早朝もなかったね。リサーチや本を読んだりするのに期限が設定されているから、休日はまったくと言っていいほど休めなかった」
「本当にハードだったけど、子どもたちに『できる』ということを証明したかったんだ。学位を取得して、僕が単なる元フットボール選手ではないことを子どもたちに見せたかったし、モチベーションはとても高かったよ」
「それに、将来もし僕が放送の世界に行くことになった場合、業界の裏側を知らないままいきなり飛び込むというのはしたくなかった」
■「瓶やレンガを投げつけられたことは決して忘れない」

スタックにとっての現在の最大の目標は、ワトフォードでの仕事を継続することだ。これは、1990年代後半に歩み始めた最初のキャリアに続く次のステージである。彼は当時アーセナルのGKコーチだったボブ・ウィルソンに薦められてトライアルを受け、育成選手としてアーセナルと契約した。
2000年にプロ契約。しばらくの間ローン移籍していたベルギーのワースラント・ベフェレンからノースロンドンに復帰した年、スタックは決して忘れられることのないシーズンの一員となった。6年で3つ目となるプレミアリーグタイトルを無敗優勝で勝ち取ったアーセナルで、スタックはイェンス・レーマンに次ぐ第2GKだった。
リーグでのプレー機会はなかったものの、“インビンシブルズ(無敵の軍団)”と呼ばれたアーセン・ヴェンゲルの伝説的なチームが成し遂げた偉業において、スタックは自身に与えられた役割をしっかりと果たすことができたと今でも感じている。
「あのシーズンは重い責任を感じていたよ。アウェイゲームにはGKコーチが一度も帯同していなかったからね」と話す。「それに、ホームゲームでもイェンスのウォームアップを担当するコーチがいなかったんだ」
「イングランドで最高のGKの1人に挙げられる選手のフォームを仕上げて、試合に向けた準備を確実に整えるという責任を負っていたよ」
「とても真剣に取り組んでいたね。僕にとっては大仕事だったし、常に正しく仕事をしなければならないというプレッシャーを感じていた」
リーグカップでは毎試合出場して準決勝まで進んだ。スタックは、3回戦のロザラム・ユナイテッド戦で記憶に残る形でデビューを果たす。
1-1の同点でPK戦にもつれ込んだこの試合、スタックは自らもキッカーを務めて成功させると、その後決定的なセーブを見せた。アーセナルは9-8で勝利を収めている。
「ハイバリーでデビューした試合のPK戦で、セーブとゴールを記録したんだ。夢みたいなことさ」と興奮気味に振り返る。「家族と友達のみんなが観ていた。今でも身震いするよ」
しかし、シーズン最高の瞬間は、アーセナルがホワイト・ハート・レーンでのトッテナム戦でタイトルを獲得した4月25日にやってきた。
チェルシーが同日の早い時間に行われたニューカッスル戦で勝利を取りこぼしていたため、アーセナルが宿敵のホームで優勝するために必要だったのは、わずか1ポイントであった。ヴェンゲルのチームは、そんな状況で迎えた試合を2-2のドローというドラマチックなスコアで終え、確実に目標を達成した。
Getty Imagesスタックは「最高だったよ」とまくしたてるように話す。「僕の人生で最も素晴らしい瞬間のひとつだった」
「バスでコーチの後ろの座席に座っていたけど、試合に向かう途中に瓶やレンガを投げつけられたことは決して忘れないだろうね。そこら中に警察がいて、コーチは完全にまいってしまっていたよ。後ろのウィンドウは破壊されたと思う」
「あれは敵意そのものだったけど、このチームメイトならば跳ね返せるとずっと考えていたよ。僕は『過剰に動揺してはいけない、彼らを怒らせてはだめだ、そしたら回り回って自分たちを傷つけることになる』って考えていたね」
「僕らのグループには、デニス・ベルカンプ、パトリック・ヴィエラ、ソル・キャンベル、ティエリ・アンリがいた。彼らは混乱していなかったよ。むしろあれで少し火がついたんだ」
「セレブレーションの途中にピッチに出たのは最高だったよ。僕はチームのキープレイヤーになることは求められていなかった。そうじゃなかったからね。僕は不可欠な存在ではなかった」
「でも確かにチームの一員だったし、その事実からは決して僕を切り離すことはできないんだ」
■「“ムービースター”にでもなった気分だったね!」

契約が残る中、クラブは12カ月の契約延長オファーを打診したが、スタックのアーセナルでの時間はその夏に終わりを告げた。
スティーヴ・コッペルから誘われたスタックは、プリマス・アーガイルに加入するまでの2年間をレディングで過ごした。その後2009年にはハイバーニアンと契約し、その3年後になってイングランドへと戻ると、バーネットで充実した4シーズンを過ごす。
2016年にバーネットとの契約が終了して新たなオファーを待っていたある日、旧友から電話がかかってきた。それは自身のキャリアをこれまでとはまったく違う方向へと導く内容だった。
「コッペルから電話があったんだ。インドに行こうとしていて、GK兼コーチが欲しいという話だった」
「こう言われたよ。『毎週7万人の前でプレーするんだ。わくわくするだろ?』ってね。僕は『じゃあそうしよう』って答えたよ」
こうしてスタックは、当時クリケットのレジェンドであるサチン・テンドルカールが所有していたインディアン・スーパーリーグのケーララ・ブラスターズに入団した。そのシーズンに大会決勝まで進出するが、アトレティコ・デ・コルカタにPK戦の末敗れている。
この間、スタックは計6カ月間を遠方で過ごした。家族から遠く離れた生活はつらい時間だったが、彼はこの経験が自分をより良い人間にしたと考えている。
「自分の心が開かれたね。集中するきっかけを与えてくれたよ。自由な時間があって、執筆するのが好きだと気が付いたんだ。それで学位を取ることにしたのさ。本当だよ」
「チームにはインド中から選手が集まっていたよ。異なる文化、宗教、言葉とか、すべてが1つのチームに集約されていた。チーム全員が同じホテルでの生活で、僕らは文字どおり何もかも一緒だったよ。とても濃い時間だった」
「試合に向かうときは頭が混乱しそうさ。道は人でもみくちゃだし、顔にペイントをした大人がいて、マフラーとかフラッグとかあらゆる物が目に入る。それに、髪を切りに行ったり地元のショッピングセンターに行ったりするだけでも人に取り囲まれるんだ。“ムービースター”にでもなった気分だったね!」
「家族は一緒に来ていなかったからとても辛かったよ。でも、アラップーザの静かな場所に行くこともできたし、ムンバイの街路では地元の人たちとクリケットもしたよ。ディーワーリー(ヒンドゥー教のお祝い)も見に行った」
「考えもしなかったことをしたからこその経験だったと思うよ」
インタビュー・文=チャールズ・ワッツ/Charles Watts
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