Julian Draxler Schalke Nürnberg 2011

いかにしてドラクスラーはトップへたどり着いたのか?10代で経験したすべて/独占インタビューvol.1

シャルケ、ヴォルフスブルクを経て、現在はパリ・サンジェルマンに所属するユリアン・ドラクスラー。10代の頃にデビューし、将来を嘱望されていたドラクスラーも26歳になった。若い頃には当然多くの苦労や忘れられない思い出があったようだ。

『Goal』とのロングインタビューパート1では、ドラクスラーがプロになるまでの道のりや初めてシャルケのユニフォームを受け取ったときの“幻滅”、父親からのプレッシャーについて語る。

さらに、ラウールとの思わぬ友情、カメラマンを抱きしめたいと思うほど舞い上がった思い出、孤立無援を感じた時期についても明かす。

■シャルケのDNAはいつから?

JULIAN DRAXLER SCHALKEGetty Images

――ユリアン、どうしてフットボールを好きになったんですか?

たぶん、僕の一家くらいフットボールに夢中な家庭はなかなかない。従姉妹や叔母や母だってそうだ。たいてい一つの話題しかなくて、それがフットボ-ルのことなんだ。男の方、つまり父や兄にしても同じことだ。そんな家庭で育ったら、フットボールに興味を持たないわけにはいかないよ。

――あなたの一家のフットボール熱は普段の暮らしにどんなふうに表れているんですか?

家族のお祝いの日や誕生日にたいてい最初に話題になるのは間違いなくフットボールのことだ。シャルケの状況や監督のこと、経営や選手のことが話題になるんだ。もちろんフットボーラーとしての僕のこともよく話題になる。だけど、それは兄についても同じことだ。兄のパトリックはBVレントフォルト(ドラクスラーの生まれた町グラードベックの地元クラブ)でプレーしていて、うちではクラブやリーグで区別したりしないんだよ。

――あなたのお父さんはシャルケのファンで、小さな頃からあなたを一緒にスタジアムに連れて行っていたそうですね。どんな思い出がありますか?

パルクシュタディオン(シャルケのかつてのホームスタジアム)でシュトゥットガルトとの試合があったんだ。試合の結果はもう思い出せないけど、最初の印象は鮮明に記憶に残っている。ざあざあ降りの大雨で、古ぼけたベンチが並んでいて、屋根も何もなかった。あの日から僕にシャルケという神話が染み込むことになったんだ。

――あなたはグラートベック生まれで、ご両親の家はパルクシュタディオンから車でたったの15分しか離れていませんね。地域の人々にとってシャルケはとてつもなく大きな意味を持っているようです。

僕たちの暮らすルール地方では、よく“信仰”という言葉が使われるんだ。車でスタジアムに向かうと、途中の至る所で庭先にシャルケの旗が掛かっている。シャルケが16位にいようと、チャンピオンズリーグに参加するランクにいようと同じことだ。常にクラブへの愛がそこにあるんだ。

――最初はどんなふうにフットボールをやってたんですか?

父や兄と一緒に、家の庭でたくさんやったよ。パトリックは僕より4つ年上で、だからデュエルでは僕が負けることが多かったね。

――お兄さんよりあなたの方が才能があると気づいたのはいつですか?

僕はシャルケでトレーニングできるようになって、プロになる訓練を受けていたから、その時点で僕の方が上になったと思ったかな。パトリックにも才能はあったけど、彼にとってフットボールはどっちかと言うと趣味のようなものだった。一方の僕はシャルケでユースチームの階段を順々に上っていった。たぶん、15歳か16歳の頃には違いがはっきりしていただろうね。

――あなたは8歳でシャルケへ移りましたね。どういう経緯だったんですか?

兄と同じように、その前は僕もBVレントフォルトでプレーしていた。パトリックがSSVブアーへ移ると、現実的な理由から兄と一緒に僕も同じクラブへ行った。父が2度も3度も車で送り迎えしなくていいようにね。ブアーへ移ってから半年経ったある日のこと、シャルケでの体験練習への招待状が郵便受けに届いた。家族全員が緊張して、もちろん僕が一番緊張していた。たった一度練習に参加しただけで、シャルケの幹部から僕を引き入れたいと言ってきた。もちろん、僕はオスカーを取ったみたいに誇らしく思ったよ。けれど最初のうち、父は話を受けていいのかどうかわからなかったんだ。息子が週に3、4回シャルケで練習するとなると、車で送り迎えするのが大変なだけでなく、間違いなく大きな出費になるからね。両親は2人とも働いていたから、そんなに簡単にできることじゃなかった。その前に、兄にもシャルケでプレーするチャンスがあったんだ。けれどそのとき父は、「パトリックには早すぎるし、出費が大きすぎる」と言っていた。僕のときには父は反対の決断をして、僕が幼かったにもかかわらず承諾の返事を出してくれたんだよ。

――初めてシャルケのユニフォームに身を包んだ時の気分はどうでしたか?

本音を言ってもいいかい? 実は、ちょっぴりがっかりしたんだ。僕は「よし、これからはシャルケでプレーするんだ、偉大な選手たちのユニフォームを着ることができるんだ」と考えていた。けれど、最初の試合の前に監督からユニフォームが配られると、「全然シャルケのユニフォームとは違うじゃないか」と思ったんだ(笑)。残念ながら、プロのユニフォームと同じものではなかったんだよ。

――何が何でもプロにならなければならないというプレッシャーを感じていましたか?

最初はそんなことはなかった。8歳や9歳ではそんなことは考えないものだ。けれど3、4年経つと、はっきりプロを目指すようになった。もちろん、それは僕だけじゃないということにすぐに気づいたよ。

――お父さんからのプレッシャーもありましたか?

かなりあったね。父は決して、「絶対にやり遂げなければならない」と言いはしなかった。けれど、その方向へ向けて強力に圧力をかけてきたよ。土曜の試合に負けたり、僕がまずいプレーをしたりすると、その週末は家族全員にとってすっかり台無しになってしまった。父がカンカンに怒っていたからだ。そういうときの父は本当に不機嫌で、ものすごく辛辣だったよ。自分ではそれほどまずいプレーだったとは思えないときもあった。すると、それが間違いだということを、父は僕にはっきりわからせたんだ。父は本当に厳しかったよ。後になってからは、ものすごく父に感謝している。おかげでモチベーションが生まれたし、それがなかったら、より頑張ろうと思わなかったかもしれないんだからね。

■恩師ノルベルト・エルゲルト

Norbert Elgert Schalke 04Getty Images

――少年時代のユリアン・ドラクスラーはどんなフットボーラーでしたか?

元々、僕は努力家とは正反対のタイプで、悪く言えば“ピンチに弱い“フットボーラーだった。テクニックがあって、視野が広く、ドリブルも上手い。だけど、ボールを奪うために全速力で後ろへ50m走っていくようなタイプじゃない。もちろん、最近はプロの試合で守備の仕事を果たすのは当然のことだし、僕もそれを身につけている。けれど、ユース時代は違った。

以前の僕の監督たちに訊いたら、みんなが口をそろえて「ユリアンは並外れた素質の持ち主だったが、守備はまったくやりたがらなかった」と言うだろうね。プロになった初めのうちも、僕はどんな状況でも楽をして解決したいと思っていたから、体を張ったりファイトを見せたりするところが足りなかった。そういうのはシャルケにとって、ファンや周りの人たちにとって受け入れがたいことだった。体を張ってファイトを見せることに意味があるのは僕にもわかっていたんだけど、僕の生まれつきの性格の中にはそういう特徴がなかったんだ。

――ユース時代にはそのせいで苦労もあったんじゃないですか。

一度大変な目に遭ったことがあるよ。僕が15歳か16歳の時にU-16チ-ムが解散したんだ。だから残ったのはU-17チームだけで、体格から言って僕は圧倒的に不利な立場に立たされた。そのとき、当時のU-17チームの監督が、6番でプレーさせることで僕に守備の重要性を叩き込もうと思いついたんだ。彼はあらゆる手を使って、僕にそれを学ばせようとした。彼は僕を成長させようとしていたんだ。けれど、当時の僕にはそれが理解できなかったし、受け入れることもできなかった。とにかく僕はまだそこまで考えが及ばなくて、U-17チームでの最初の年に大きな問題を抱えることになった。体を張る必要があったボルシア・ドルトムントとの一戦では、ある17歳の選手と何度もデュエルになったんだけど、僕はまったく太刀打ちできなかった。あれは、自分にいいプレーができなくて、他の選手たちの素晴らしさに初めて気づいた出来事だった。自分がもうトントン拍子で階段を上っているわけじゃないことに気づいて、初めて悩みを抱えることになったんだ。

――それから、あなたは選手としてまた一歩成長したんですね。

僕は1、2週間ベンチに座っていた。僕がどんな気持ちだったか、家族のムードがどんなだったか想像がつくだろう? それから時間が経つにつれて、だんだん僕はもっといい守備を身につけようと努力するようになったんだ。それに気づいた監督は、そのうちまた僕をもっと攻撃的なポジションで、たいていは10番でプレーさせるようになった。僕ははっきり気分が持ち直したのを感じたよ。今から考えると、あれは僕の成長のためにとても重要なプロセスだった。

――ベンチに座る時間もあったとのことですが、その頃はクラブを移ろうと思ったりしましたか?

いや、そんなことは思わなかった。本当にすぐにまた状況が改善したんだ。もし1、2年ベンチに座ったままで先へ進めなかったとしたら、もしかしたらそんなことを考えたかもしれない。けれど、僕の目標はシャルケの一員としてブンデスリーガでプレーすることだった。練習場からいつもパルクシュタディオンが見えていたし、僕は絶対にそこで戦いたかったんだ。

――当時、ボルシア・ドルトムントがあなたに興味を持っていたと聞いていますが。

ヴェストファーレン選抜チームにいた頃、僕がシャルケでいくらか問題を抱えているという噂が外に漏れたことがあるんだ。ドルトムントには当時すごく野心的な監督がいて、彼は常に地域で最高の選手たちを集めたいと思っていた。たとえば、今VfLボーフムにいるトーマス・アイスフェルトなんかが、あの頃BVBからヴェストファーレン選抜チームに入ってプレーしていた。そういう選手たちが監督の指図で、移籍する気があるかどうか僕に訊いてくることもあった。だけど、そんなことは僕にとってまったく問題外だったよ。

――U-19時代の監督ノルベルト・エルゲルトはあなたの成長に非常に大きな役割を果たしたんですか?

2011年の初めにはもうフェリックス・マガトが僕をトップチームに引っぱり上げたから、エルゲルトのチームにいた期間は1年もなかった。それでも、彼についてならいろいろたくさん話すことがある。これはすごいことだ。彼が僕にどんなに大きな影響を与えたか、どんなに大切なことを教えてくれたかを考えると、フットボールの世界に入ってから彼と比べられるような人は他に誰も思いつかない。彼はフットボールのことだけ考えているわけじゃない。いろんなことを彼から学ぶことができるんだ。たとえば、人と付き合うときにはどう振る舞えばいいのか、仲間同士がうまくやっていくにはどうすればいいのか、そういったことをね。ノルベルト・エルゲルトは偉大なお手本だ。もちろんフットボールの面でも優れているし、特に戦術面では第一人者だ。けれど僕にとっては、人間としての彼のことがより強く記憶に刻まれているんだ。

――あなたが彼から人生に役立つことを学んだ、何か具体的な経験を覚えていますか?

それはちょっとしたことなんだ。若いフットボーラーというのは自己中心的で、自分流のやり方で自分の目標を達成したいと思っている。ノルベルト・エルゲルトは、時には強引に自分のやり方を押し通すのもいいと思っている。けれど、彼にとって何より大切なのは、常にチームとして考えることなんだ。それをよく表している話を覚えているよ。

――聞かせてください。

クリスマスパーティーの後、シェルムベックにある彼の家にみんなでちょっと立ち寄ったときのことだ。玄関を入ってすぐのところに所狭しとたくさんの絵が掛かっていた。最初はそれを見ても何も思わなかった。けれど、最後にはその一枚一枚の絵に重要な意味があることに気づいたんだ。たとえばある絵には、南を目指して飛んでいく最中のすごい数の渡り鳥が描かれていた。最初にそれを見ると、「彼はどうしてこんな鳥の絵を飾ってるんだろう」と思う。さらに見ていると、こんなふうに思う。「何羽の鳥が描かれているんだ? さっぱりわからない。500羽だろうか? 1000羽だろうか? とても数えられないな」。それからまた考える。「この鳥の群れのうちどれだけの数が、自分の力だけで南の国までたどり着けるんだろう? 自分の力だけで? たぶん1羽もたどり着けないだろうな。そうだ、1羽だけだったら、最初の嵐に出会っただけで飛ばされてしまうにちがいない。けれど、この鳥たちがみんな一緒に集まれば、うまく南の国にたどり着くことができるんだ」。すると、彼がどんなふうに行動する人間で、何を考えているかということが理解できるんだ。

■憧れのラウールとの出会い

Julian Draxler/ Raul Schalke

――自分がプロになれるだろうとはっきり自覚した時点がありましたか?

スペインでU-15の大会に参加したのが僕にとっての決定的な経験だった。その大会にはたくさんの有名チームが参加していた。レアル・マドリーやバルセロナ、パリ・サンジェルマンやアーセナルなんかだ。その大会で僕は得点王になって、最優秀選手として表彰されたんだ。14歳か15歳の頃だった。その後、思ったんだよ。「この大会にはあらゆるトップクラブが参加していて、僕はちゃんと張り合ってやっていけた。ということは、僕はどんな選手にも引けを取らないってことだ。これからまだまだ先へ行けるぞ」ってね。

――あなたは16歳で初めてプロの練習に参加しました。大いに緊張したことでしょう。

ものすごく緊張したよ。けれど、一番気になったのはプレーのことじゃなかった。初めてロッカールームで顔見せするときにどうなるか、他の選手たちにどう挨拶すればいいのかが心配だったんだ。その1、2年前まで、まだ僕は練習場の隅から眺める側だったんだから。

――それで、挨拶はどうなったのでしょう?

前もって車で父と話し合っていた。ロッカールームへ入っていって、ジャーメイン・ジョーンズに向かって「ジョーンズさん」って直接話しかけるなんてとても無理だった。本当にそんなことを考えていたんだ。結局、あっさり「こんにちは、ユリアンです。今日ここで練習することになっています」って言っただけだったよ。選手たちに直接話しかけるなんてことは想像だけに終わって、やらずに済ませてしまった。だって、敬語を使えばいいのか、馴れ馴れしく話しかけてもいいのかわからなかったんだから。ちょうどラウール・ゴンザレスがシャルケにやって来たばかりの頃で、その彼が突然目の前に現れた時には口も利けないくらい動揺してしまった。英語で「ハロー、アイ・アム・ユリアン」って言おうとしたんだけど、口の中でボソボソつぶやくのがやっとだった。僕はそそくさと彼の手を握って、さっさと通り過ぎた。腰が抜けるほどびっくりして、黙り込んでしまったんだ。

――どうしてそんなにラウールに夢中だったんですか?

僕はずっとラウールが好きだった。以前チャンピオンズリーグでレアル・マドリーの試合を見たときに彼を見つけたんだ。スター軍団でキャプテンを務めたことまである選手だ。その人が突然ロッカールームで自分の隣にいるんだから、夢じゃないかと思ったよ。まず、ラウールがこれからシャルケでプレーするなんて、フェリックス・マガトは一体どうやってそんなことをやってのけられたんだろうという疑問が胸に浮かぶ。次には、まさにそのラウールと一緒に自分が同じロッカールームにいるなんて、そもそもどうしてそんなことが起こりうるんだろうと自分に訊いてみたくなるんだよ。

――その後、どの時点かでラウールに話しかけることはあったんですか?

あの頃はそんな勇気はなかったよ。けれどあるとき、彼は僕に大きな才能があることに気づいたんだ。僕はわりと早くブンデスリーガで試合に出られるようになっていた。当時のラウールはたいてい10番のポジションにいて、僕は左サイドでプレーしていた。連携プレーを成功させるためには、僕に正しいやり方を教える必要があるとわかっていた。僕は彼から何でも吸収したし、何よりまず、自分のプレーを彼に満足してもらえるようなものに変えようと努力した。「君にはまだそれだけの力がない」と言われたとしたら、たぶん僕はそれ以上何の役割も果たせなかっただろう。練習や試合が終わってからも、僕は彼に質問したものだ。彼がボールを受けたときに僕はどこへ走ればいいのか、僕がボールを持ったときに彼はどんなパスをもらいたいのか、などね。そうやって、僕が彼から学びたいと思っていることにラウールは気づいたんだ。最近は17歳や18歳、あるいは19歳で、とにかく自分一人で何とかしようと考えている選手たちが大勢いる。僕の場合はまったく正反対だった。そこから、そのうち友情が生まれてきたんだ。

――まだラウールと連絡を取り合っていますか?

うん、取り合ってるよ。毎週電話を掛け合ったりはしないけどね。僕たちの誕生日や彼の奥さんの誕生日にはお互いにメッセージを送るし、会ったりもする。ラウールを友達と呼べることを、僕はとても誇りに思っているよ。

――シャルケでデビューした当時、あなたはまだ学校に通っていました。フェリックス・マガトは学校を中退するよう勧めたものの、あなたはそうはしませんでした。どうして中退しないことに決めたんですか?

どうするか決めるのはすごく難しいことだった。重要なのは、僕が学校を辞めるように、フェリックス・マガトが急かしたり無理強いしたりしたことは一度もなかったってことだ。けれど彼は、「君にはコンスタントに試合に出られるだけのポテンシャルがあると思っている。それに、シャルケのメンバーとして3つの大会に出ながら学校に通い続けるのは難しいかもしれない」と言ったんだ。あの頃、ちょうど彼は僕をスタメンに定着させることを考えていて、だから僕に中退を勧めたんだ。僕は野心に燃えていて、フットボールをやりたくてたまらなかったから、本当は学校を辞めたかった。だけど、そうはいかなかったんだ。

――どうしてですか?

その時点ではもう新学年での生活が始まっていた。まず家庭省が、それから学校省が介入してきて、そのうち政治問題になってしまった。結局、何とかシャルケでプレーしながらベルガー=フェルトの総合制学校に通って、高校修了試験に合格することができたんだ。あの頃はかなり大変だったよ。僕の両親は、親としての責任を十分に果たしていないみたいに書き立てられたこともあった。僕と両親は本当にいろんな目に遭ったよ。

ちょっと想像してみるといい。誰かが何年間も何かを目指して努力しているとする。その挙句、やっと足掛かりが得られそうになっているのに、「明日の朝のトレーニングには出られません。学校があるんです」なんて言う羽目に陥るんだ。正直言って僕の頭にはフットボールのことしかなかったし、美術の授業で時間を潰すなんて真っ平御免だった。もしかしたら直接関係のない人たちにとっては理解に苦しむことなのかもしれないし、僕だって基本的には、誰に対してもちゃんとした成績を取って学校を終えることを勧めるだろう。けれど、僕のような特殊なケースではそんなのは間違いなく馬鹿げたことだった。フェリックス・マガトから「いよいよお前の番が来るぞ」って言われて、ラウールの横で6万人のファンに見守られながらプレーするっていうのに、次の日の朝になると学校に行かなきゃならないんだ。本末転倒だったのは間違いないね。

――今の時点でその頃のことを考えてみて、何かポジティブな点を見つけられますか?

もちろんだよ。今では学校を卒業したことを本当によかったと思っている。キャリアを終えてから夜間学校に行かなくてもいいしね。

■「すべてが変わった」ゴール

Julian Draxler Schalke Nürnberg 2011

――当時のあなたは、普通のティーンエイジャーとはまったく違った生活を送っていたんですね。

そう、全然違ってたよ。僕は、プロとして試合に出られるようになるまで絶対パーティーには行かないって、常に自分に言い聞かせていた。その誓いは守りきれたよ。僕が初めてアルコールを口にしたのは、シャルケがDFBポカールの決勝で勝利を収めた後だった。初めてパーティーに出かけたのもこの決勝の後だ。それまでの僕の生活は、ただ学校と練習、学校と練習、ひたすらその繰り返しだった。もちろん僕にも仲間はいたけど、いつのまにか離れ離れになってしまった。他の仲間はいろんなことをやってみたり、パーティーに出かけたりしていた。けれど、僕にはそんな暇はなかった。週末も試合の遠征があったし、学校の勉強もしなければならなかったからね。もちろん、そのうち僕も夜に遊びに出かけたりするようになったけれど、僕の場合はみんなよりずっとずっと遅れてそうなったんだ。

――何かを逃してしまったような気がしますか?

自分が手に入れられなかったものがあるのはわかっている。ひょっとしたら、時間も逃してしまったのかもしれない。誰もが最高にクールでわくわくするものだという人生の一時期をね。だけど僕は後悔してないし、もしプロのフットボーラーになるという大きな目標を果たせなかったら、その何倍も腹が立っただろうしね。

――2011年1月15日にあなたはブンデスリーガデビューを果たしました。そうなりそうな気配はどのくらいあったんですか?

冬に、僕はべレク(トルコのリゾート地)でのトレーニングキャンプに呼ばれて行った。そこにだいたい10日間くらいいたんだけど、その間に僕は幹部たちからトップチームでプレーできると判断されたんだ。それからAチームのラウールの隣で練習するようになって、何回かのテストマッチでもうまくいった。そのときにはもう、フェリックス・マガトは僕を使ってみたいと思ってるんだなって感じていたよ。けれど、確信はできなかった。彼は選手を腕に抱きしめて目論見を明かしてくれるようなタイプの監督じゃなかったからね。

――では、彼は本当に“鬼軍曹”だったんですか?

確かにそう言えるし、選手たちとは打ち解けない態度だった。時々ほんのちょっと満足の気持ちをほのめかすこともあったけれど、それは本当に例外的なことだった。彼の下では、どう思われているのかわからないまま宙ぶらりんで放っておかれることが多いから、気持ちをしっかり持って自分の仕事をやるしかないんだ。

――トレーニングキャンプに参加した後、あなたは一人で考え事をすることになったそうですね。

トレーニングキャンプの後にハンブルガーSV戦が予定されていたから、僕たちはべレクからチームに用意されたホテルへ直接向かった。試合前の1日か2日、僕は夜になるとホテルの部屋に座って、自分が18人のベンチ入りメンバーの中に入れるかどうか考えを巡らせていた。紙と鉛筆をつかんで、「守備に最大で6人、4人がスターティングメンバーに入って2人が待機」といったふうに何もかも書き出してみた。中盤やFWでも同じことをやった。誰がケガをして、誰が出場停止になっているか考えた。そうやって、考えられる限りの可能性を検討してみた。けれど正直言って、そんなことをしてもやっぱり見通しは立たなかったよ。

――その当時の記憶は色濃く残っているかと思います。印象的だったことはありますか?

今でも覚えてるんだけど、デュッセルドルフ空港に着いてから両親に「お前を当てにしていいのか」と訊かれたよ。ただそのときは、自分がチームと一緒にデュースブルクのホテルへ向かうのか、それとも家へ帰ることになるのか、自分でもわからなかったんだ。飛行機を降りた後、当時アシスタントコーチだったゼッポ・アイヒコルンが近づいてきて、「君はバスに乗るんだ」と言われていた。ラウールや他の主力先取たちもバスに乗り込んだのを見てからやっと、たぶんベンチ入りできるとわかったんだ。ホテルに着くと、すぐ父に電話したよ。「僕は今チームと一緒にホテルにいるんだ。レギュラーに入ったんだ」とね。少し経つと、「ちょっと待てよ、ホテルには20人いる。だけど、ベンチ入りするのは18人だ」と気づいてしまった。すべて最初からやり直しで、僕はまた紙と鉛筆をつかんで部屋に座っていたよ。

――いつレギュラー入りがはっきりしたんですか?

次の朝、もう一度練習があった。その後フェリックス・マガトが僕のところへやって来て、「今日は君に試合に出てもらうかもしれない。準備しておくように」って言われたんだ。すっかり興奮してしまったよ。ピッチに出てウォーミングアップするのは本当に最高の気分だ。ブンデスリーガの試合の一部始終を初めて手で触れるくらい間近で目にするんだ。その後、試合自体は散々な流れになった。フェリックス・マガトは「ユリアンを出してもこれ以上ひどいことにはなりようがない」って考えたのかもしれないね。僕は83分にイヴァン・ラキティッチと交代でピッチに入ったんだ。僕たちは0-1で負けてしまったけど、何と言ってもあれは僕の人生の中で最高に素晴らしい日の一つだった。とにかく、誇らしさではち切れそうだったよ。

――そして、もっといいことがありましたね。わずか10日後、あなたはDFBポカール準々決勝のニュルンベルク戦で116分にペア・クルーゲと交代出場して、119分に決勝ゴールを挙げました。

ハリウッドスターになった気分だったね。その3日前に、僕はハノーファーで初めてスターティングメンバー入りしていた。何も特別な試合じゃなかったし、僕も特にいいプレーをしたわけじゃない。だけど、とんでもなくクールな経験だったよ。僕たちは1-0で勝ったし、僕がシャルケの一員として初めて経験する勝利だったからね。それからあのニュルンベルク戦があったんだ。その後、僕の生活は何もかも以前とはまったく変わってしまったよ。

――ニュルンベルク戦の後についてはどんなことを覚えていますか?

ものすごくたくさんのことが記憶に残っている。あんな経験をしたら、忘れられるものじゃない。今になって試合後のインタビューの様子を見ると、ほとんど自分だとは思えないよ。あのときの僕は自分が何を求められているのか全然わからなかったし、何とかしてプロらしく振る舞おうとしていた。だけど僕は17歳だった。カメラマンを抱きしめたいと思うくらい舞い上がってたんだ。次の日は学校へ行くことになっていたけれど、僕は「学校は休みます」と答えた。一度にものすごくたくさんのことが起こった。あのゴールですべてが変わってしまったんだ。

■「壁にぶつかって重要なことを学ぶ」

Julian Draxler 2019 DAZN

――あなたは最初のシーズンにDFBポカール優勝を経験し、チャンピオンズリーグ準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦にも出場しました。17歳という若さで、そんな経験にどうやって対処すればいいのでしょうか?

もちろん、それは難しいことだ。僕はわりとうまく切り抜けたと思っているけれど、それは家族がいたからできたことだよ。「落ち着け、リラックスしろ、平常心を失うな、さらに努力を続けろ、まだ始まったばかりなんだ」って繰り返し言われたよ。17歳でああいったすべてを経験して、ポカールで優勝して決勝でゴールを決め、サン・シーロで5-2とインテルを破り、オールド・トラッフォードで準決勝に出場したら、「順風満帆だ」って思うのも当然だ。自分は最高だと思い込み、ほんのちょっぴり手を抜いて、何もかもひとりでにうまくいくだろうと思っても仕方のないことだ。それでも、僕はあの時期にとてもうまく対処したと思っている。少なくとも、完全に天狗になってしまうことはなかったからね。

――自分を最高だと思い込んだ時期があなたにもあるということですね。

半年の間、前よりちょっと練習の量が減って、「ただの練習なんだから」なんて言ったりしていた。それ以前の僕にはそんなことはありえなかった。初めてプロの契約にサインしてから半年で新しい契約を結んで、突然10倍も稼ぐようになったら、そういう事態に対処するのは簡単なことじゃない。頑張らなくてもこのまま進んで行けるだろうと思って、気が緩んでしまう。そして練習でちょっとだけ手を抜くようになったかと思うと、たちまち対戦相手の選手たちを見くびり始める。相手の方は今では僕に何ができるか知っているし、前より注意して僕を見張っている。何度かいいプレーをしてゴールを決めれば、一定の働きをしたことになるけれど、それよりずっと難しいのは、そのレベルを維持し続けることだ。ブンデスリーガでは誰もが力を持っている。BユースやAユースとはわけが違う。プロの世界では全力を投入しなければ潰されてしまうんだ。僕はわりとすぐにそのことに気づいたから、またダメな時期から抜け出すことができたんだ。

――ラウールがクラブを去り、ジェフェルソン・ファルファンがケガに見舞われると、突然あなたがすべてを背負って立つことになりました。

ラウールやクラース・ヤン・フンテラールやファルファンと一緒にピッチにいれば、対戦相手のほとんどは彼らにかかりきりになる。その場合、僕は左サイドで好きに動けるし、誰も僕に何かを期待してなんかいない。いくつかいいプレーをすれば、「こいつには才能があるし、何かをしでかしそうだ」とみんなから言ってもらえる。最初はそれで十分だ。けれど契約が延長になって、僕がそれまでよりもっとたくさん稼いで、シャルケの未来を担うことを期待されているのが知れ渡ると、大いに期待されるようになる。僕はまだそれに慣れていない。以前ならラウールにアドバイスしてもらえたし、いろんな事態にどう対処すればいいのか、一定の状況ではどう振る舞えばいいのか相談することができた。けれど、突然誰もいなくなってしまったんだ。僕は一人ぼっちだった。最初は「誰もいなくたっていいさ、どうすればいいのかはわかっている」と思っていた。けれど、19歳では何もわかりはしない。初めてそんな状況に置かれるなんて、自分の力には余ることだ。僕の場合がそうだった。

――一人ぼっちになったことで厳しい状況に陥ってしまったんですね。

プレーがうまくいっている間は、すべて問題なく進んでいく。けれど、初めて敗戦が自分のせいにされるのを経験すると、それまでとは打って変わって大きなプレッシャーにさらされるようになるんだ。周りを見る目が変わって、自分に自信を失くしてしまう。プライベートでもそうだ。当時の僕はそんな状況だった。

――その難しい状況からどう抜け出していったのでしょうか?

僕は実家を出て兄と暮らしていて、両親とはもう前ほど頻繁に顔を合わせなかった。僕は19歳で、ある種の事柄や小さな問題をさっさと片づけたり解決したりできるほど大人じゃなかった。たとえば、母から「もう、あんまりお前には会えないようだね」と言われるような状況だった。けれどその頃の僕は外に遊びに出たり、デュッセルドルフでちょっと羽目を外したりしている方がよかったんだ。19歳の少年がごく普通にやっている、まさにそういうことをしていたかった。とにかくその頃の僕はまだ、はっきり話し合ってそういう状況をすぐにまた整理する準備ができていなかった。そうする代わりに、壁に向かって体当たりしていたんだ。壁にぶつかっていってから、そのうちに成長して、本当に重要なことにまた気づくようになるんだよ。僕はあの経験を忘れたくないと思っている。

――シャルケを大切に思っているからこそ、期待に応えようとするのは重荷になったこともあるかと思います。

確かにね。クラブと違って、僕にとってのシャルケは単なる“職場”じゃなかった。大勢の人たちの目が僕に注がれていたんだ。試合に負けると、ファンだけでなく、近所の人たちや家族の友人たちからも「お前はクソッタレ」と言われたよ。たとえば叔父の誕生日を祝っていたとき、いつも北スタンド(パルクシュタディオンのシャルケのサポーターたちの定席)に陣取っている誰かがそこにいて、突然僕に向かって「はっきり言って、お前はとんだマヌケ野郎だよ」って言ったんだ。まさにルール地方ならではの言い方だ。あそこでは、みんなが遠慮なく言いたいことを言う。相手が19歳の少年で、まだこれから成長する途中だということは関係ないんだ。それと同時に彼らは、誰かがピッチの上で本当に100%の力を出し切っているか、それとも愚にもつかないことに頭を使っているのか、すぐに見抜いてしまう。そんなときは、10代の若者なら最初はむしろ反発して、「何が言いたいんだ? 知ったふうな口を利きやがって」と思う。けれど後になってから、僕もそうだったけど、たいていは彼らの方が正しいってことに気づくんだよ。

インタビュー・文=ダニエル・ヘルツォーク/Daniel Herzog

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