サッカー界最後のアーティスト、ピルロの引退…二度と現れることのないマエストロ

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ピルロは12月で引退することを発表したが、彼の名は歴代最高の選手、そして彼のようなタイプとしては最後の選手として記憶されることだろう。

イタリアは長年にわたり素晴らしいミッドフィルダーを生み出し続けてきた。バレンティノとサンドロ・マッツォーラ、ジャンニ・リヴェラ、ジャンカルロ・アントニオーニ、リーノ・ガットゥーゾ、ダニエレ・デ・ロッシ…それは今後も続いていくことだろう。しかし、そうしたスター選手の中でも突出した存在はマエストロ、アンドレア・ピルロだろう。

10月8日、ピルロはニューヨーク・シティFCとの契約が切れる12月に現役を退くことを発表した。
「その時が来た、ということは自分で気がつくものだ」

「毎日フィジカルの問題を抱えている。私の年齢になるともう十分だ、と言わなくてはならない。50歳まで維持できるわけはないんだ」

38歳のピルロはイタリア『ガゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューにそう答えた。

Andrea Pirlo Juventus Barcelona Champions League

16歳の時に彼のホームタウンであるブレシアでセリエAデビューを飾って以来、ピルロは世界中のサッカーファンを魅了してきた。

サッカーの世界、とりわけカルチョにおいては、部族主義的なところがあり、クラブや国を超えるワールドクラスの選手というのはとても稀である。しかし、ハビエル・サネッティ、パオロ・マルディーニやジャンルイジ・ブッフォンとともに、ピルロはほぼ全てのサッカーファンから愛されてきた。

彼が愛された理由は、彼特有のスタイルにある。トレードマークであるヘアスタイルとヒゲがあってもなくても、「ピルロ」という存在はすぐに見分けがつく。涼しい顔でピッチを動き回り、まるでチェスの達人かのようにボールとチームメートを動かし、スタイリッシュな曲線を描くフリーキックは純粋に美しい。

サッカーの純粋さを愛するものたちにとっては、ピルロはサッカー選手が持つべき全てを兼ね備えている。スピードはなく、弱く、ヘディングもタックルもスプリントもしないが、彼のテクニック、メンタルといった面での天賦の才は、彼が今も唯一無二の存在であることを示している。

それはまた、ブラジルで崇拝される数少ないイタリア人という理由にもつながる。多くのブラジル人は、リベリーノ、トスタン、ソクラテスやジーコが自由な雰囲気の中で自由な精神を享楽した1970年や1982年に戻ることを切望している。ピルロはブラジル人が今なお願う、汚れなく、気楽で、かつリスクを恐れないブラジルサッカーの代名詞のような存在なのである。

「アンドレア・ピルロは全てのヨーロッパ人の中で最もブラジル人的な選手だ。私がドリームチームを選ぶとすれば、最初に選ぶのが彼だ」

元ブラジル代表監督であるドゥンガはそう話したが、皮肉なことにブラジル代表をアスリート的な方向にシフトさせ始めた最初のひとりが彼である。

Andrea Pirlo Italy 2006

実際、現在はアスリートの時代といえる。ルールの変更、メディカルの発展、合成繊維で作られたボール、戦術の進化、そしてゲームスピードの向上によりピルロのような芸術家肌の選手はピッチから押し出された。ピルロは、ゲームが今よりもスローで、テクニカルで、効率的なプレッシングが導入される前の1980年代のサッカーによりフィットしていたことだろう。

「彼は格式高い選手だ。欺き、間、フェイク、精密さなど、私にはかけがえないが、時代遅れだと言う人もいる。しかし、彼はそういった要素を武器としてチームを引っ張ることができるんだ」

「そうした要素は、今日のサッカーで流行し、サッカーをとても厄介なものにしたインテンシティーという言葉とは正反対のものだ」

かつてアルゼンチン代表やレアル・マドリーで活躍したホルヘ・バルダーノはそう語っている。

このインテンシティーが、ピルロの天賦の才を奪いかねなかった。10番のポジションが廃れ始め、ピルロはインテルで居場所を確保できず苦労した。幸運なことに、ブレシアでカルロ・マッツォーネ、そしてミランではカルロ・アンチェロッティが先見の明を持って、ピルロを本来のトップ下のポジションから引き気味の位置でプレーメーカーとしての役割を与えたのだった。それ以来、彼は攻撃のテンポを操り、正確無比なスルーパスを炸裂させるなど、彼の良さを表現することができるようになったのだ。

ディフェンスラインの裏への浮き球に関しては、ミシェル・プラティニ以来正確で効率的なボールを繰り出せる選手は恐らくいなかった。116の代表キャップを持つ彼ほど、冷静に慌てることなくボールをキープできる選手はいないだろう。相手のクオリティ、試合の位置付けなど、ピルロにとっては何もプレッシャーにはならなかった。

「プレッシャーを感じることはないし、何も気にしない。2006年7月9日の午後、僕はベルリンで昼寝をしたり、プレイステーションで遊んだりしていた。そしてその晩、ワールドカップで優勝したんだ」

これは彼の有名なコメントである。

Pirlo Stats

Andrea Pirlo AC Milan Liverpool 2007

レジスタとして、ピルロはチャンピオンズリーグ史上最高のクラブのひとつの中盤の頭脳として、そして心臓として君臨していた。ガットゥーゾ、クラレンス・セードルフ、そしてカカとともに2000年代初頭の5年間で3度のチャンピオンズリーグ決勝進出、準決勝と準々決勝には1度ずつ進出し、2度の優勝を成し遂げた。

彼と番犬ガットゥーゾとの中盤でのコンビネーションは、2006年のワールドカップでイタリア代表が、24年ぶり4度目の優勝を飾ったチームでは生命線であった。ドイツ大会でピルロはアシストランキングとマン・オブ・ザ・マッチの選出回数でトップとなった。大会でのイタリアの初ゴールをガーナ戦で決め、フランスとの決勝ではマルコ・マテラッツィの同点ゴールをもたらすアシスト、そしてPK戦でもしっかりとPKを成功させた。

そして他の偉大な選手達と同様に、2011年には10年に及んだミランとの蜜月が解消された際に彼のことを終わったとみなした者たちが誤っていたと証明したのだ。33歳になった年、彼はキャリアで最高のシーズンを過ごした。カルチョポリスキャンダル以降不振に陥っていた新しいクラブ、ユヴェントスでチームをけん引し、シーズン無敗優勝をもたらし、その後のユーロ2012でも、イングランド、ドイツとの決勝トーナメントの試合では傑出したパフォーマンスを見せるなど、素晴らしい活躍を披露した。

その年から3年連続してピルロはセリエAの年間最優秀選手に輝くとともに、ユヴェントス王朝も築いたのだった。そしてユーヴェは、セリエA6連覇を果たしている。彼がトリノでプレーしていた間で、本当に失望を招いたのは彼のユヴェントスでの最後の試合となった2015年のチャンピオンズリーグ決勝、ベルリンでバルセロナに1-3と敗れた試合だった。歴史的な3冠獲得を逃し、彼はオリンピア・シュダディオンで涙を流したのだった。

2年半のニューヨーク・シティFCでのキャリアも、わずか1ゴールを挙げたにすぎないが、彼のキャリアに影を落とすようなものではなく、アメリカに行くときにはすでに彼のキャリアも終わりが近づいていることを意味しているのは明らかだった。

実際、輝かしいキャリアを通して彼は十二分なことを達成してきた。6度のスクデット、2度のチャンピオンズリーグ優勝を始め、チームとして獲得した19回の優勝の中にはワールドカップとU21ヨーロッパ選手権での優勝も含まれるなど、クラブと代表チームでほぼ全てのタイトルを獲得した。関係者の中には、イタリアが2012年のユーロ決勝で敗れていなければ、その年のバロンドールは彼が獲得したはずだと信じているものまでいる。

彼のキャリアは、今から50年経ってもハイライトで流されるような記憶に残る出来事ばかりだった。ユーロ2012のイングランドとのPK戦でのパネンカや、ドルトムントのスタジアムで行われた2006年のワールドカップ準決勝でのドラマチックなエンディングを演出したファビオ・グロッソへのアシスト。2001年のユヴェントス戦でロベルト・バッジョに送った最高のチップキック、2009年にレアル・マドリー相手に沈めたフリーキック、そして彼の代表100キャップ目となった2013年のコンフェデレーションズカップ、メキシコ戦でのフリーキックなど、数えあげればきりがないほどだ。

「ピルロは天才だ。バッジョとともに、彼はイタリアサッカー界が過去25年間に産んだ最高のタレントだ」

イタリア代表とユヴェントスのレジェンドであるGKジャンルイジ・ブッフォンはそうまくし立てた。

「彼が史上最高の選手だと歴史に記憶されるだろう。彼は全てを成し遂げたんだ」

また、ピルロの引退のニュースについて、かつてのチームメートであるサミュエル・ダッラボーナは『Goal』ののインタビューにそう答えた。

確かなのは、ピルロのような独特な選手はこれからも現れないだろうということだ。イタリアそして史上最高のミッドフィルダーであり、プレーメーカーというだけでなく、恐らく彼はアスリートの時代において、最後の純粋なアーティストであるだろう。

文=カルロ・ガルガネーゼ/Carlo Garganese

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