2021-10-30-arakawa-elfen©Masahiro Ura

「女子選手たちに与えられた選択肢があまりに少ない時代だった」。42歳になった荒川恵理子が振り返る女子サッカーの25年/前編

WEリーグにおいて最も長い選手キャリアを持つ、ちふれASエルフェンFW荒川恵理子。日本女子サッカーの歴史を、変わらず愛らしいアフロヘア・荒川の25年のキャリアとともに、3回に分けて紐解いていく。第1回となる前編は「レジ打ちをしながらサッカーを続けた20年前」について。

■「私は“中2”で止まっているんですよ」

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以下に続く

 WEリーグ開幕時に設定された目標は、「観客5000人」だった。現在、その目標には至っていないが、女子プロサッカーリーグの存在は、こうして掲げられた「数字」のためではなく、長きにわたる女子サッカーの歴史とそれを牽引してきた先駆者の志をもって設立されたと理解したい。

 10月30日に42歳の誕生日を迎える現役女子サッカー選手がいる。WEリーグにおいて最も長い選手キャリアを持つ、ちふれASエルフェンの荒川恵理子だ。元日本代表として、ワールドカップは03年アメリカ、07年中国、五輪は04年アテネ、08年北京大会に出場したボンバーヘッドのFWといえば、覚えている人も多いだろう。

 彼女は今も年齢によるフィジカル・スピードでの衰えをまったく感じさせない。スポーツ選手は、年齢を通してプレーを評価されやすい。しかし荒川は「年齢はただの尺度。自分の体は一番自分が知っているから」と笑う。

「自分の年齢を言って自分でびっくりします。けれど私にとって年齢は数字でしかない。世間一般の常識は、私にとって常識じゃないかもしれません。私は“中2で止まっているんですよ、いろいろと。だからいつも『がんさん、何歳?』って聞かれたら『14歳だよ』って答えています(笑)」

■二十歳前後の選手たちがぶつかっていたリーグ存続の危機

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 荒川が最初にサッカー選手として女子サッカーリーグに参戦したのは1997年。当時、高校3年生だった。男子サッカーは翌年に控えた1998年フランスW杯に向けアジア最終予選が行なわれており、悲願のW杯初出場に向けて盛り上がりを見せていた。

 一方で、女子サッカーにはリーグ存続の危機が訪れていた。

「97年当時、読売ベレーザにはプロ選手が5人くらいいました。高倉(麻子)さん、澤(穂希)さん、大竹奈美ちゃん、手塚(貴子)さん、宇野涼子さん。外国人選手もいましたが、1年間だけ在籍していなくなってしまった。チームとしてプロ選手を獲るのが難しい状況でした。フジタマーキュリー(フジタサッカークラブ・マーキュリー)やシロキ(シロキFCセレーナ)もなくなってしまって…」

 廃部やリーグを脱退するチームが続出し、リーグの先行きが見えないなか、荒川個人には、代表のプレッシャーものしかかっていた。

「(99年1月に行われた)シドニー五輪の予選では、(ベレーザから)私のほかに4人が候補に上がっていました。小林弥生や柳田美幸、中地舞が代表に入り、『いま行けないと後がない』という思いは強かった。なのに、シドニーのチャンスを逃してしまい、ガックリしながら帰って来ました。『坊主にする』とか言っている子もいたりしたのを覚えています」

 シドニー五輪出場を逃したことで、女子サッカーはさらに窮地に追い込まれる。

「私はそこまで過敏ではなかったのですが、99年頃は『ベレーザがなくなるかも』という噂があったりしました。加入時のクラブ名は『読売西友ベレーザ』だったんですが、西友が撤退してしまったんです。私は(西友と)社員契約をしていて『読売西友ベレーザ』じゃなくなっても1年間は雇っていただいていたんですが、契約が切れる3カ月前くらいに『バイトで西友でレジやってください』って言われたんです」

 社員契約でサッカーだけをしていた環境から、アルバイトとしてレジを打つ。日々状況が変わるなかで、不安も感じたことだろう。

「この時期に辞めていった人は多いですね。年齢的に大学に進学するかの分かれ道ですし、『バイトとの両立は厳しい』とベレーザを抜けて企業のチームに行ったり、サッカー自体を辞める人も多かったです。大学卒業後に戻ってきてもリーグ自体が不安定。だから大学卒業時に『自分はこれ以上やっても見込みがない』と考えたり、あるいは社会人としての生活を優先したりして、違う職に就く人は多かったんじゃないでしょうか」

 選手たちに与えられた選択肢があまりに少ない時代だった。この頃は、多くの選手が「もはやサッカーができる環境ではない」と痛感する時代でもあった。20歳前後の若い選手が精神的に追い込まれ、不安のなかでプレーしていた状況はやるせないものがある。

「私は運よく『西友のアルバイトがある』と提案されました。固定給で、しかも実家住まいだったので、なんとか生活できました。だけど地方から出てきている選手はバイトをみっちり入れないと生活できない状況だったと思います。チームメートのごみちゃん(加藤與惠)も実家住まいでしたが、練習後に飲食のバイトを朝7時までやって、そのまま大学に行って……という状態。さすがに毎日ではなかったと思いますが、側から見ていて、ほぼ寝ていないような生活でした」

 将来が見えない不安の中でサッカーをするだけでなく、生活のためのアルバイトとの両立。二十歳前後の若き体力とはいえ、体を壊す選手も少なくなかっただろう。休む間もなく働きながらサッカーをするという状況に置かれた選手たちが、20年前には当たり前に存在していた。

「仕事が終わると『練習に間に合うためにあの信号を何時までにダッシュしなきゃ』とか、常に気忙しく考えていて。例えば19時からの練習も開始20分前くらいに着いて、急いで着替えてアップするような状態でした」

「ベレーザの時も試合前日まで普通に仕事して夕方から遅れて遠征に行ったりしていたんですよ。土曜も仕事だったので、みんなは日中に練習しているのに私は16時半に仕事を終えてクラブに行って、体を動かして帰っていました。自分はまだ仕事が少ないほうでしたし、当時はこれが当たり前だと思っていたんです。今思うと、ちょっと考えられない状況ですよね」

 しかし、今でもこうした“二足の草鞋”の選手は存在している。

 荒川は「WEリーグにも別の仕事と両立しているアマチュア選手はいます。けれどこうしてリーグが設立されたことで『WEリーグ入りを目指したい、プロになりたい』という目標が明確になったのは大きなスタート」と期待を込めて語った。

中編「女子サッカー冬の時代からなでしこブームまで」に続く

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