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香川真司とドルトムント。欧州キャリアの原点、そして次世代に受け継がれるもの/インタビュー

 ドルトムントに移籍した2010年当時は21歳。その後、欧州でのキャリアは12年以上続いた。厳しい競争の中で生き抜いてきた。マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)、ベシクタシュ(トルコ)、サラゴサ(スペイン)、テッサロニキ(ギリシャ)、そしてシント=トロイデン(ベルギー)と戦った国は6カ国にわたる。

 そして、今年2️月に古巣・セレッソ大阪に復帰すると、34歳となった今もJ1リーグ戦全34試合に出場し、2得点を挙げている。今の日本のフットボーラーのなかでも稀有な存在である香川真司が、欧州での原点であるドルトムントについて語った。【協力:ドルトムント】

◼︎ブンデス連覇、記憶に残るチーム

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――ドルトムントは初の海外移籍先となりました。順応はすんなりいきましたか。

以下に続く

 サッカー選手である僕たちの世界は、いかに良いスタートを切ってそのチームで結果を残すかですべてが変わります。生活もそうです。その街に暮らす人たち、イコールドルトムントのファンですから。結果一つで周りの目、サポートも違ってきます。 そういう意味で僕の1年目はすごくいいスタートを切れたので、適応は早かったと思います。もちろん語学もやりました。週に2回ドイツ語の先生をつけてレッスンをしていました。めちゃめちゃ難しかったですけど。

――最初から海外を目指していたのですか?

 いや、今の若い選手ほどではないですね。当時は逆にJリーグに大きな夢を持っていましたから。Jリーグを見て育った世代ですし、大きな誇りでした。カズさん(三浦知良)のようなビッグスター、ジーコさん、そういう選手に憧れて僕はスタートしました。

 当時は今のように配信があるわけじゃないので、世界のサッカーに触れることはなかなか難しかった。アンダー世代の代表で世界を経験して「世界にはもっとすごい選手がいるんだな、世界に出るしかないな」というその過程があったなかでヨーロッパに行きました。

――ドルトムント黄金期を支えました。2010-11、11-12シーズンのブンデス連覇、なぜこのような強さがあったのでしょうか?

 いろんな要素があると思います。まずは20代前半の選手が勢いに乗ってそのまま突っ走ったところ。その中に、ケリーやベテランのヴァイデンフェラーを含めて30代ぐらいの選手もいて、そこのバランスが非常に良かった。クロップも青年監督と言われていてまだ若く、ドルトムント3年目のシーズンで。チームも監督のやりたいサッカーをグラウンドの上で理解していました。それがうまく実り、僕やレヴァンドフスキが機能して優勝できました。すべてのタイミングがうまく重なったんじゃないかなと思います。

――個人チャントがほぼないブンデスリーガで個人チャントができて、それがC大阪時代と同じものでした。

 おっしゃるように個人のチャントはあまりないんですけど、セレッソのときの応援歌をそのまま取り入れてくれたのは、過去も含めてあまりないことでした。嬉しい気持ちしかなかったです。ダービーで勝って(※)、その瞬間からより大きな信頼をすごく感じました。僕たちは結果を残して評価されますから、数字や結果を機に、よりファン、メディアも含めて注目されるようになっていきました。

※シャルケとのルールダービー。加入直後である2010年9月19日の第4節で香川は「自分が2点取って勝つ」と話した言葉を実行、自身の2得点を含めアウェイで3-1の勝利を収めた。

◼︎黄色い壁、クロップ、そしてファンタスティック4

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――ホーム「ジグナル・イドゥナ・パルク」の一番のすごさは?

 あのスタジアムは凄まじいです。ゴール裏だけで 2万5000人入ります。ウォーミングアップで足を踏み入れた瞬間、それだけで何て言うんですかね…毎試合、すごく鳥肌が立っていました。心から震える雰囲気でした。「これが僕たちのホーム」というのを誇りに感じながら試合を迎えられた。あのスタジアムの雰囲気は一生忘れられません。「これぞホーム」の雰囲気を感じさせてくれる後押しでしたね。

――香川選手にとって、ユルゲン・クロップ監督はどういう存在ですか?

 彼なしで自分のヨーロッパでのキャリアはつかめなかったと思います。僕もそうだけど、彼もドルトムントに来て当時2年目で、青年監督と言われていて経験がまだ浅い状態ではあったと思います。当時のメンバーもみんな20、21歳の選手でマリオ・ゲッツェは20歳でした。

 みんな若くて「これから行くぞ」っていう年齢で(クロップ監督と)出会ったことは、僕にとって本当に大きな分岐点で運命だったと非常に感じていますし、彼と出会えなかったら今のキャリアは歩めなかったと思います。

――マンチェスターUから復帰した15-16シーズンには、ムヒタリアン、オーバメヤン、香川選手、そしてロイスの「ファンタスティック4」が機能しますが、周囲を生かしゲームを作るプレーが増えてきました。意識して変わったのか、それとも戦術的な面での変化でしょうか?

 戦術的なところは大きいです。当時の(トーマス・)トゥヘル監督ですね。フォーメーションもちょっと変わりました。4-3-3 のインサイドハーフの立ち位置でのプレー機会も多くなりましたし、すごく幅を持たせてもらったシーズンだったと思います。

 フォーメーションも時代によって大きく変わっていきますよね。4-2-3-1がベースとしてあった中で、4-3-3という当時とても強かったバルセロナのフォーメーションでした。

 個人的にも興味を持っていましたし、当時の日本代表監督のアギーレさんも4-3-3だったんです。代表とドルトムントで重なる部分が多くありました。その役割でプレーも違うんですけど、4-3-3はすごく面白かったですね。

■「あの時のシンジ・カガワ」という期待

20231214-shinji-kagawa-interviewNishina Taka

――マンチェスターUを経て、14年ドルトムントに復帰し、翌15-16シーズンに復調を遂げます。葛藤もあったと思いますが、うまくゆかない時期はどのようなモチベーションで臨み、また這い上がって来られたのでしょうか?

 2年経ってユナイテッドから帰ってきた当時は、やはりとても苦しみましたね。チームも前半戦最下位でしたし、ものすごく苦労しました。ファン・サポーター、メディアを含めてみんなが想像するのはやはり優勝した当時の「あの時のシンジ・カガワ」という感じでしたから。チームとともに苦しんだ半年だったので、今も鮮明に覚えています。一生忘れられないです。

 ただ何て言うんですかね。サッカー選手ならば必ずそういう時期は訪れるし、そういう時にどう立ち上がれるか、なんですよね。キャリアを通してものすごく浮き沈みが激しい中でやってきたので、やはり自信を失う時もありますけど、それを解決するのは自分自身です。そのためにトレーニングする、メンタル的に良い状態を常に作る準備をする、そういう細かい作業をやるしかありません。

 今ヨーロッパでやっている選手もそういう苦しい時期があると思います。毎試合8万人をバックに試合をする。いい時はいいですが、うまくいかない時はプレッシャーに感じたりもする。そういう中でやり続けるためには本当に日頃から毎日が勝負だという気持ちがあります。

――苦しい時、例えば監督や誰かに相談しましたか?

 いや、ないです。監督に相談することもなければ、選手に相談することもないです。自分でやるしかない。自信を失ってうまくいかないことに不満を持っていても誰も解決してくれませんし、誰も助けてくれません。

 僕自身、うまくいかない時には不満に思うことや監督に思うこともたくさんありましたけど、結局自分で解決するしかない。こういう世界ですから、自分がグラウンドの上で示すしかない。トレーニングから示し続けるしかない。シンプルですけど、そういう形で常に自分を鼓舞しながらやるしかないんです。

――良い思い出、ドルトムント時代の最高の思い出を教えてください。

 いっぱいあります。でも僕はキャリアを終えた後に振り返りたい気持ちをずっと前から持っていて。今はこれが一番の思い出とかあまり考えていないんです。もちろん、いい思い出も悪い思い出も苦い思い出もたくさんあります。ただ、優勝は常に語り語り継がれるものだし、それを成し遂げた当時のメンバーは永遠にこれからも語り継がれるし、僕が歳を取ってもすぐ思い返せる出来事なのかなとは思います。

――一番気持ち良かったゴールを教えてください。

 グラートバッハ戦(※)で優勝を決める追加点を取れた時は、ものすごく嬉しかったし映像で見る限り簡単に決めているように見えるんですけど、「これは結構難しいぞ」っていう逆足で決めているんですよ、スピードに乗りながら。なかなか練習でも出せないようなゴールだと思います。あれは結構難易度が高いゴールなんじゃないかな。自分で言うのもあれですけど思いますね。

※2011-12シーズン第32節 ボルシアMG戦(2012年4月22日、2-0で勝利)

――印象に残っているブンデスリーガで「すごい」と思った選手はいますか?

(マヌエル・)ノイアーですかね。ペップ時代(のバイエルン)を含めて「入る気がしなかった」です。ペナ外からシュートを打っても「絶対入らねーだろう」っていうぐらい。1対1になってもノイアーという名前でみんながことごとく外していたという記憶があります。

■「ムココを応援したくなりますね」

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――海外組の先駆者として、プレーし続けられた一番の理由を教えてください。

 結局は負けたくないっていう気持ちですね。もちろん僕もキャリアの終盤を含めて、なかなか思うようにいかない時期を多く過ごしたんですけど、でも自分で決めた道に対して最後までやり切りたい気持ちがものすごく強くて、そこに大きな可能性を感じていました。結果論としてはいろんなことを語れますが、当時は本当に「ここで戦えれば必ずやれる」っていう自信を持ってやっていました。だから自分のキャリアに対する後悔はまったくないと思います。

――18歳のムココ選手がドルトムント歴代ベスト11を選出しましたが、香川選手も選ばれていました。知っていましたか?

 もちろん知っていますよ。いやぁ嬉しいですね。純粋に18歳の選手が選んでくれて。(ムココは)12歳ぐらいから有名でアンダーの代表に入っていて当時からすごい選手がいると聞いていました。彼はきっとドルトムントのことをずっと(好きで)ドルトムントを見て育った生粋のドルトムントの選手なので。そういう選手からそういう言葉をもらえるのはすごく光栄だしムココを応援したくなりますね、今後も。

「優勝は常に語り語り継がれるもの」。香川がそう語ったように、あのころスタジアムを沸かせたメンバーの存在は、次世代の選手にも影響を与えている。日本からやってきた「小柄な背番号23」の存在を目撃したファンはいつまでも忘れないし、「あのころ」は語り継がれてゆくだろう。そして、その当事者は今も日本で、Jリーグでプレーを続けている。

取材・文:吉村美千代(GOAL編集部)

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