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飾らず、偉ぶらず、自惚れず、そして最後まで強情に…電撃引退、ビジャの決断。刮目すべきラストストローク

ダビド・ビジャがなぜ左足でもシュートを打てるのか――。彼の父親メルが、私にその理由を語ったとき、いろいろと合点がいった。

ビジャの愛称は、エル・グアッヘ。アストゥリアスで使われるその言葉は、フェルナンド・トーレスの愛称エル・ニーニョと同じように子供や少年といった意味があるほか、炭鉱夫見習いのことも指す。メルは炭鉱で石炭を採掘しながら育ち、そして彼の子供ダビドはボールに執着しながら育った。そしてダビドの人生は、これまでずっと、その足元にボールが転がっていたのだった。

■ビジャという男

2019_11_16_villa6(C)Getty Images

ダビドの強情さ、揺るぎない意志の強さは、おそらく遺伝子レベルで刻み込まれているものだ。メルが私に話してくれたことによれば、彼は5~6歳の頃に右足大腿骨骨折という重傷を負った。しかし、それでも家でボールを蹴ることはやめなかったのだという。利き足が使えなかったダビドは、左足でボールを蹴った。毎日、1日中、左足でボールを蹴っていたのだ。幼かった彼本人は意識していたわけではないだろうが、ボールを蹴りたい一心で過ごしたその日々が、ビセンテ・デル・ボスケが感嘆した「両足を巧みに使える」ことにつながり、果てにはフットボール界にその名を深く刻む今日までに至っていったのである。

以下に続く

またダビドは強情ではるが、飾ることのない素朴な人物でもある。ダビドのバレンシア時代を象徴するプレーの一つとして、バルセロナ戦で披露したグアヒーニャが挙げられる。それは右足でボールを引き、軸となっていた左足のかかとに当てて一瞬の内にダニ・アウベスの股を抜いた、今なお語り継がれる伝説的なプレー。その試合の直後、私はグアヒーニャについて話してもらおうとダビドに声をかけた。すると彼はあっけらかんとこう返したのだった。

「ディエゴ、あれは自然にできてしまったものなんだ。練習はしてないよ」  

これこそエル・グアッヘなのである。飾ることも偉ぶることも自惚れることもなく、ありのままの自分で、ありのままの言葉を口にする。いつも率直で、どんな場所であっても笑顔を絶やさない。ルイス・アラゴネスやデル・ボスケと話すときも、新人記者と話すときも態度を変えることがない。しかし、やはり天才であることは間違いないのだ。

そしてダビドは、いつだってチームというものを何よりも大事にしていた。スター選手として扱われることを嫌う彼は、自分がプレーするチームを地元の友人たちで結成したチームとしてきたのだ。スポルティング・ヒホンでデビューを果たし、レアル・サラゴサで一躍脚光を浴び、バレンシアでスター選手の仲間入りを果たし、バルセロナとアトレティコ・マドリーで夢に見たタイトルを獲得していき、ニューヨーク・シティで世界的アイコンとなり、ヴィッセル神戸では最後までプロフェッショナルとしてのあるべき姿を示して……。おそらく、あと2~3年プレーし続けていても、彼はゴールを決め続けていたはずだ。

だがしかし、エル・グアッヘは頑固なのだ。強情なのだ。もし頭に一つの考えが浮かんだら、それを果たさなくてはならない。だから引退という言葉が口にされたならば、もう後戻りはできない。そう、彼はただひたすらに、掲げた目標に邁進し続けたのだから。

ダビドはすべてを勝ち取った後だって、まるでユース世代の若者のように栄光を貪ってきた。いつだって、もっと、もっと、とゴールを決めてきた。バレンシア時代、彼の戦友であるダビド・シルバが、私に語ったことがある。ビジャは練習に取り組む姿勢が人一倍激しく、チームメートが少しは手を緩めろとなだめていたことを。彼はボールが足元にあれば闘牛になる。常に200%の力でプレーに臨み、1秒たりとて気を休めはしない。だからこそ彼は5シーズンで4回もスペイン人得点王に輝きながらも、チームとしてタイトルを獲得するためにバレンシアを去ったのだ。そして実際、彼はすぐにチームタイトルを手にしていった。チャンピオンズリーグ、リーガ・エスパニョーラ(2回)、スペイン・スーパーカップ……。スペイン史上最高のストライカーにふさわしいトロフィーを、その手につかんでいったのだった。

■スペイン最高のストライカーに

2019_11_16_villa4(C)Getty Images

そして、ラ・ロハ(赤の意、スペイン代表の愛称)で過ごした日々があった。ダビドは代表チームの歴史的7番となるはずだったラウール・ゴンサレスがアラゴネスに招集されなくなってから、その番号を背負ってプレーすることになった。

ラウールの信奉者にとっては目の敵とも言える存在だったが、しかしながら少しずつ運命を変化させて、議論の余地などない“スペインの7番”になったのだ。彼はスペイン代表で記録した59得点は、過去に誰一人として決めることができなかった数字であり、今後も超える者はそう簡単に現れないだろう。何より、彼は重要な大会でゴールを決めていった。すべての始まりでありEURO2008では4得点を決めて得点王となり、2010年南アフリカ・ワールドカップでも最多タイとなる5得点を記録して両大会の優勝に貢献した。惜しむらくは、バルセロナの選手として臨んだ日本でのクラブ・ワールドカップで左足脛骨を骨折し、EURO2012に不参加となったこと。日本の首都のホテルで、左足にギプスをはめた彼がチームメートたちから励まされていた場面は、彼の輝かしいキャリアにおける切ない思い出として残ることになるのだろう。

■下した決断

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「フットボールからやめさせられる前に、自分からフットボールをやめたい」

エル・グアッヘは以前からあった考えのもとで、今季限りでスパイクを脱ぐことを決めた。もし頭に一つの考えが浮かんだならば、それを果たさなければならないのが彼だ。晩節を汚すことを嫌った末に下したその決断は、これまでピッチで駆け抜けてきた日々を、さらに輝かしいものとするだろう。そして、これから彼は戦いの場をピッチからオフィスへと、戦闘服をユニフォームからスーツへと変えることになる。2021年からUSLプロフェッショナルリーグに参入するニューヨーク・クイーンズボロの会長として、腕を振るうことになるのだ。だが、それはもう少し先の話でもある。というのも、現在の彼は天皇杯に大きな期待をかけているからだ。

ダビドはこれまでそうしてきたように、トロフィーを掲げてから日本を去ることを望んでいる。そして彼が目標を掲げるならば、きっとそれは達成されるはずだ……。

幼少時、大腿骨骨折という逆境の中でもボールを、シュートを、ゴールを愛した男が、まもなく行く。私たちはエル・グアッヘが最後まで突き進む姿を、目に焼き付けなければならない。

文=ディエゴ・ピコ(Diego Pico)/スペイン紙『MARCA』バレンシア番
翻訳=江間慎一郎

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