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【特別寄稿】“ドーハの悲劇”から丸24年…知られざるカズの涙

今年もまた“あの日”がやって来る。

1993年10月28日、後半アディショナルタイムに喫した失点でワールドカップ初出場が幻と化した残酷な瞬間。日本サッカー界の大きなターニングポイントとなった“ドーハの悲劇”から、28日でちょうど24年を迎える。

中東の小国カタールに6カ国が集い、2週間で5試合を戦う過密日程で集中開催されたアメリカW杯アジア最終予選。悲願のW杯初出場に王手を掛けていた日本は、勝てばアメリカ行きが決まるイラクとの最終戦で2-2の引き分けに終わり、天国から地獄へと突き落とされた。6時間の時差があった日本だが、深夜にもかかわらずテレビ中継は高視聴率を叩き出していた。まさに列島全体がショックで声を失い、悔し涙を流し、サッカーの怖さを初めて思い知らされた形となった。

以下に続く

この「ドーハの悲劇」には、知られざる“続編”がある。

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■知られざるカズの涙

衝撃の敗退から一夜明けたドーハ市内のホテル、AFC(アジアサッカー連盟)の指示で全6カ国が呉越同舟して宿泊していたシェラトン・ドーハのロビーに、突然強烈なアルコール臭が漂ってきた。チャーター便で帰路に就く日本代表が姿を現した瞬間だった。

キャプテンの柱谷哲二、司令塔のラモス瑠偉、守護神の松永成立らは、まだ呆然とした表情を浮かべている。追いかけ続けてきた夢が無残に砕け散ってから半日余り。あまりのショックにAFC主催の表彰式を全員が欠席し、それからも眠れぬ夜を過ごしたのか。中にはアルコールの力を借りずにはいられなかった選手がいたことは容易に想像がついた。

声を掛けるのもはばかられるような状況の中、カズ(三浦知良)が近づいてきた。お酒が苦手なカズはアルコール臭こそ発していなかったが、まだショックが癒えていないのか、目は真っ赤だった。

「成田空港に帰ったら、トマトかな……」

おもむろにこんな言葉を投げてきた。カズの脳裏に浮かんでいたのは、雑誌か何かで読んだことのある1966年イングランド・ワールドカップだった。グループリーグ最終戦で伏兵の朝鮮民主主義人民共和国代表にまさかの苦杯をなめ、決勝トーナメント進出を逃したイタリア代表が、帰国したミラノの空港でサポーターからトマトを投げつけられ、罵声を浴びた事件だった。

日本から遠くカタールへ声援を送ってくれたファンやサポーターはアメリカ行きを逃して激怒している――。カズは覚悟していた。だから「トマトかな……」と、思わず口にしてしまったのだろう。

当時はインターネットはおろか、電子メールもない時代。ゆえにカズを始めとする日本代表選手は、日本国内で沸き上がっていた大フィーバーを知るよしもなかった。

いや、違うよ――。当時、スポーツ紙でサッカー担当記者を務めていた筆者は、彼らに日本の状況を伝えようと、編集部からファックスで送られてきた10月29日付けの紙面をカズに見せた。1面にはまさかの結末が大々的に伝えられ、そして2面と3面は見開きの形で上部に大見出しが連なっていた。

「胸張って帰って来い 忘れないこの感動」

次の瞬間、カズが目頭を押さえ始めた。

彼の涙を見るのは2度目。最初はわずか4日前の10月25日。韓国相手に勝利を飾り、日本を単独首位に押し上げる値千金のゴールを決めた直後のことだった。W杯やオリンピックのアジア予選で韓国に勝ったのはこの時が初めて。それだけに感極まって涙腺が緩んだのだろう。だが、歓喜の笑顔が飛び交う中でラモスだけが仏頂面だったことは有名なエピソードだ。怒気を込めて「まだ何も決まってないよ!」と口にしながら取材エリアを通り過ぎていった姿は語り草にもなっている。

浮かれるな、とラモスは伝えたかった。そして図らずもラモスが危惧した通りの結末を迎えてしまった。一夜明けて、韓国戦後とは対照的な涙を流し、やや語気を強めながらカズは言った。

「これじゃあダメなんだよ」

当時、アジアからのW杯出場枠はわずか「2」。アメリカ行きの切符はサウジアラビアと韓国が手にした。日本は何も成し遂げられなかった。だからこそ「感動をありがとう」という論調に違和感を覚えたのだろう。

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1993年はJリーグが華々しく幕を開け、新時代が訪れた年でもあった。プロ化の波に後押しされるように、日本代表も著しい進歩を遂げていた。史上初めて外国人監督となったハンス オフトに率いられ、1993年にアジアカップを初制覇。W杯アジア1次予選も7勝1分けの無敗、28得点2失点という圧倒的な成績で勝ち抜いていた。

そのオフトジャパンをけん引していたのは、言うまでもなくカズだった。1次予選は8試合で8ゴール。最終予選でも1分け1敗という最悪のスタートを切り、最下位に低迷した状況で朝鮮民主主義人民共和国から2ゴールを叩き込んで蘇らせた。オフト監督は2戦目まで採用していたカズと高木琢也の2トップを、この3戦目から中山雅史をセンターフォワードに据え、長谷川健太を右ウイング、そしてカズを左ウイングに置く布陣に変更。トップ下でラモスが攻撃のタクトを振るった。そして続く韓国戦もカズのゴールで勝利し、悲願成就へ王手を掛けていた。

迎えたイラク戦も前半開始早々にカズのゴールで先制。後半に追いつかれるも、神懸かり的な活躍でスーパーサブからレギュラーを奪取した中山が69分に勝ち越しゴールを挙げる。

そして――イラクが右CKを獲得したのは、時計の針が後半45分を回った直後だった。相手が選択したのはショートコーナー。想定外の展開にあわててカズがボールホルダーとの距離を詰める。しかし、疲労は極限まで達していたのだろう。切り返した相手にあっさりと置き去りにされ、それでも食らいついて最後は必死に右足を伸ばしたが、クロスはそのわずか先をかすめていった。

距離にして10センチあるかないか。それでも、「惜しかった」という言葉は何の慰めにもならない。クロスを許した自分が悪い。オムラム・サムランに決められたヘディングゴールの責任を一身に背負うかのように、カズはその場にひざまずいてしばらく動けなかった。

■日の丸への畏敬の念

世界を見渡せば、同じような経験をしたチームは枚挙にいとまがない。この20日後、ホームでヨーロッパ予選の最終戦を迎えたフランスは、ブルガリアに終了間際の失点でアメリカ行きを逃している。強豪と呼ばれる国々はそのたびに、悔しさを糧にはい上がってきた。そこで原動力の一つとなるのは、ファンやサポーターから浴びせられる厳しいブーイングや忌憚のない批判。だからこそ「これじゃあダメなんだよ」という言葉が、思わずカズの口を突いたのだろう。

静岡学園高を1年で中退し、日本をW杯に導くという大志を抱いて、単身ブラジルへ渡った。苦労を重ねながらプロになったカズは、誰よりもブーイングや批判の意味を理解していた。

ただ、その一方でホッとした部分もあったのではないか。プロの歴史が浅い日本に、独自のサッカー文化が宿りつつある。日本代表の戦いぶりに魂を揺さぶられ、誰もが悔しさと悲しみを共有していた。ともに手を取り合って、1998年のフランス大会を目指そう――見出しを通じてそんな思いが伝わったのだろうか。

ホテルを出発する間際、カズは小さな声で「ありがとう」とも言った。

あれから24年。心技体ともに絶好調だった26歳のカズは、今年でプロ32年目を迎えた。50歳になった今シーズンもJ2の横浜FCでボールを追っている。

「現役である以上は日本代表入りを目指す」

2017-10-27-kazu02.jpgJ.LEAGUE PHOTOS

口ぐせにもなっている日の丸への畏敬の念。その原動力はサッカーが誰よりも好きだという情熱と、“ドーハの悲劇”から一夜明けて、人知れず流した涙にあると今でも思っている。

文=藤江直人

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