2017-09-20-TAGHeuerBanner

すべては成長のために…人生の岐路をギラギラ感で乗り越えた中山雅史の若き日とは

「23歳になったのが1990年9月。その数カ月後に発表されたんですよ。2年後に開幕するJリーグの参加する10チームが」

同年春に筑波大を卒業した中山は、ヤマハ発動機に入社してプロ化前の全国リーグ「日本サッカーリーグ」を戦った。7月にはダイナスティカップの朝鮮民主主義人民共和国戦で日本代表デビュー。3年後に控えたJリーグ開幕、さらに4年後のFIFAワールドカップ アメリカ出場に向けて、期待の若手ストライカーとして脚光を浴び始めたまさにその頃だった。

もちろん、日本サッカーリーグ屈指の名門であるヤマハは初年度からのJリーグ参加に名乗りを上げていた。ところが1991年2月、Jリーグが発表した参加10クラブ「オリジナル10」の中に、その名前はなかった。

「正直なところ、どうしようかなって。これからどうすればいいんだろう、どういう選択をすれば自分が成長できるんだろうという帰路に立たされた。それが23歳。Jリーグに参加するクラブへ行くのか、それとも、ヤマハに残って存在をアピールするのか。W杯のこと、僕自身のこと、いろいろなことを考えて、ヤマハに残るという決断を下したんです」

1993年のJリーグ開幕に向け、日本サッカー界は華やかな盛り上がりを見せた。その影で、アマチュアリーグを舞台としながら中山も存在感を示し続けた。1991年に15得点、1992年に13得点、1993年には18得点と結果を残し、いつしか日本代表の常連となった。

「勢いだけ。何とかしてやろうという気持ちだけ。そういうギラギラ感がありましたね。振り返れば、高校時代はFWで、でも静岡県選抜ではストッパーやサイドバックをやって、大学時代にはMFもやって、またFWに戻ってきた。いろいろなことを覚えて、経験を積み重ねて成長できた気がします」

ヤマハは「ジュビロ磐田」と名称を変え、2年目の1994年からJリーグに参戦した。1997年にリーグ初優勝を飾ると、黄金時代を向けて国内屈指の強豪へと急成長を遂げた。磐田にとっても、日本代表にとっても、中山は不可欠なエースとして圧倒的な存在感を誇った。

「ヤマハに残ったことも含めて、その瞬間は『ベスト』だと思って決断してきました。だから、それ以外の選択肢はあり得なかった。まあ……そう思わないと生きていけないところもあるんですけどね(笑)。一瞬一瞬を大切に、どれだけ充実した時間を送れるか。そこですよね」

“大切なこと”は、もう一つある。

「人の話を聞けるかどうか。ただ聞くだけじゃなく、“ちゃんと”聞く。それを自分の中に取り込んで、消化して、いかに自分に還元するかだと思うんです。もちろん、自分にとって大切じゃない話もあるかもしれない。でも、まずはちゃんと聞いて、判断して、それから行動する。そして継続する。それができるかどうかが、すごく大切だと思うんです」

49歳にしてなおピッチに立つ今も、エネルギーは“あの頃”と変わらない。だから同じプレーヤーとして、ヤングガンにエールを送る。

「若い選手たちには、もっとハチャメチャに、ハツラツと、思い切りプレーしてもらいたい。どうすれば成長できるのか、それを考えながら、表現してほしい。もちろん、僕自身も気持ちでは負けないようにツッパっていきたいと思います」

文=細江克弥

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【Player Profile】
名前:中山雅史
生年月日・出身地:1967年9月23日・静岡県出身
身長・体重:178cm・72Kg
経歴:岡部小学校→岡部中学校→藤枝東高校→筑波大学→ヤマハ発動機→ジュビロ磐田→コンサドーレ札幌→アスルクラロ沼津

【TAG Heuer YOUNG GUNS AWARD】
Jリーグの次世代を担う若い選手層の育成・Jリーグの発展を目的に、各メディア・著名人など、本企画に賛同するアワード サポーターが、J1、J2、J3のクラブに登録されているU-23選手の中から候補者30名を選出。その後、一般投票を含む最終選考にて11名を選抜、2017年12月に表彰する。

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