BROUGHT TO YOU BY
2020-08-20-kimmich(C)Getty Images

新世代の闘将、ヨシュア・キミッヒ。いかにしてバイエルンの中心となったのか

試合前、スター選手たちがピッチに入っていくと、芝の上で一列に並んでいく。

マヌエル・ノイアー、トーマス・ミュラー、ロベルト・レヴァンドフスキ。そして他の錚々たる面々も列を作り、腕を組んで、スタジアムの誰もいない観客席を見つめている。彼らが待っているのは「鞭」だった。

少し時間をおいて大股で歩いてきたのは、小柄なヨシュア・キミッヒ。自身より大柄で、歳上な上に経験も豊富なチームメイトの前に着くと、その場で飛び跳ね始める。跳ねながらチームメイトを通り過ぎると、自分の右腕を上から下まで叩き、次に下から上にもう一度叩いた。今度はチームメイトの体を叩くと、皆に気合いが伝染するように飛び跳ね始めた。

以下に続く
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2020年7月4日のことだ。バイエルン・ミュンヘンはDFBポカール決勝戦でレヴァークーゼンに4-2で勝利し、国内2冠を達成。同時に7年ぶりの3冠への挑戦権を確保した。この試合を決定づけた選手として、キミッヒは「鞭」の役目を負っていた。絶えず存在感を出し、周到なパス対応を見せたキミッヒは中盤を制圧。デュエルへのソリッドな姿勢も見せつつも、2-0としたセルジュ・ニャブリのゴールを演出した素晴らしいパスも披露してみせた。

DFBポカール決勝戦での活躍が意味するのは、右サイドバックで長い年月を過ごした彼が、MFとしてついにブレイクしたということ。そして、押しも押されもせぬリーダーになったのだ。MFはキミッヒの一番のお気に入りポジション。そしてリーダーはキミッヒの望む役割。キミッヒは、すべての面でバイエルンの中心にたどり着いたのだ。『Goal』では彼の道のりを追うべく、これまでの同僚たちにインタビューを試みた。

■始まりはシュトゥットガルトから(〜2013年)

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世界最高クラブでの好きなポジション、好きな役割へのキミッヒの道のりは、ベージンゲンにある人口3500人の小さな街から始まった。シュトゥットガルトとフライブルクの間にあるバーデン・ヴュルテンベルクという街だ。少年時代、キミッヒは友人たちと牧草地に自分たちの小さなサッカーフィールドを作って遊んでいたが、その後、本物のフィールドでプレーすることになった。地元のVfBベージンゲンでプレーし始めたのだ。当時からサッカーを楽しむことと同時に、すでに勝利に対する気持ちが備わっていたという。試合に負けたときには、キミッヒはよく怒り、金切り声をあげ、ときには大声で叫んでいたという。

しかし、このチームで彼が戦った最も重要な試合では、彼は怒り狂う必要はなかった。2007年、地元の「小さなVfB」は、州都のシュトゥットガルトにある「大きなVfB」に勝ったのだった。「大きなVfB」は当時12歳だったキミッヒに強い興味を持ち、移籍するよう説得した。キミッヒは父親の車でシュトゥットガルトに出かけ、2年間練習と試合に参加した。そして14歳になると全寮制の学校に通い始め、自宅通いから独立することになる。キミッヒは順調に成長していたが、体よりも頭脳の成長が早かった。

技術的には、子供の頃から比べるまでもなく上手かったキミッヒだが、チームメイトが縦にも横にも大きくなっていく一方で、キミッヒは小さく、細いままだった。2010年にDFB(ドイツサッカー連盟)は、U16の新チームを結成するため、1995年生まれの最も才能あふれる選手を集め、初めてのセレクションを行った。ニクラス・ジューレ、レオン・ゴレツカ、セルジュ・ニャブリら現在の同僚たちは全員候補選手として招集されていたが、キミッヒは落選。当時のU16代表監督のステファン・ボガーはインタビューで「背が低すぎたし、線が細すぎだった」と語っている。

10代の頃、フィジカル面での発達が遅いことを監督に指摘されることはこれが初めてではなかったし、最後のことでもなかった。頻繁に言われたことではあったがキミッヒ自身は納得せず、苛立ちもした。憤りが絶望に変わることこそなかったものの、成長願望を自身のうちに募らせることになっていく。

自身の体を無理やり成長させることはできなかったが、代わりに自身の頭の中に戦術論を詰め込み、ボールコントロールを磨くことはできた。当時のキミッヒについてボガーはこう語っている。

「素晴らしいテクニックと戦術理解で注目を集めていたね。そしておそらく最も重要なのは、お手本となるようなメンタリティと、学習意欲だったんだ」

「賢い子だったのを覚えているよ。頭がよく、好奇心旺盛で、サッカーに関することには何にでも強い興味を示して質問してきた。『監督、なぜこれはこうして、こうするのですか? 監督、なぜ僕はこうしなければならないのですか?』という具合だった。こうした質問に答えるのが嬉しかったよ。他の子たちと同じ速度で課題を達成することはできなかったが、課題に没頭していたんだ。だから、ヨー(キミッヒの愛称)とトレーニングするのはいつも非常に楽しかった」

幼いころからキミッヒは物事のつながりを理解したがっていた。いつでも物事の全体像に目を向けていたが、同時にどんな細かなことにも目を配っていた。ときに同僚を苛立たせたこともあった。シュトゥットガルトの全寮制学校には「キミッヒ・ルール」なるものまで残してしまい、これは今でも存在するという。そこには同僚との食事中の携帯電話の使用など、細かなところまで記されている。コミュニケーション、そして何よりも自分の考えを守り抜くことが、彼にとって常に重要なことだったのだ。そのことで公然と意見を戦わすことになったとしても。

「意見を述べることをいとわない子でしたね」

そう語ったのは、当時のシュトゥットガルトU19監督であるイリヤ・アラチッチ氏。「サッカーをするだけの選手や、考えてから順に行動に移すような選手はたくさんいました。でもヨーはどんどんたくさんのことを知りたがり、もっともっと、と学びたがった。そして何でも素早く吸収して実行していました」と語る。

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もっと深く、もっとたくさん。U17での最初のシーズン、キミッヒは平凡な控え選手だった。しかし2年目は、レギュラーの座を争うまでになり、U19になるとセントラルMFとして起用された。キミッヒはストライカーのティモ・ヴェルナーと共にチームを牽引し、ブンデスリーガAユーゲント(U19)南・南東エリアで2位につけた。バイエルン・ミュンヘンに次ぐ順位であった。

18歳になったキミッヒは、プロへと飛躍する準備ができていた。もしくは、少なくともリザーブチームには入る準備は整っていた。しかし、シュツットガルトの首脳陣の見方は違った。キミッヒは「彼らは、僕がまだ肉体的に十分成熟しきっていないという見解だったんだ」と話す。

そのため、トップチーム昇格はかなわず、もう一年Aユーゲントで過ごさなければいけなくなった。自己評価に見合わぬ事態だったため、キミッヒは移籍を決意する。

チームを離れる際、チームにいた時によくやっていたことをもう一度行った。キミッヒは叫んだのだ。今回は怒りが理由ではない。チームメイトとのつながりがそうさせた。アラチッチは当時を思い出す。

「去り際に私のところにもう一度やってきてくれたので、彼と親密でいられたことがよくわかりました。そして彼は涙を流したのです」

■ライプツィヒで大ブレイク(2013~2015年)

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2013年、移籍金50万ユーロ(約6200万円)、150万ユーロ(1億9000万円)の買い戻しオプション付きでキミッヒはRBライプツィヒへと移籍する。当時のライプツィヒは彼個人と全く同じだった。若くして、トップへの険しい道のりを歩んでいたのだ。アレクサンダー・ツォルニガー監督のもと、クラブは3部に昇格したばかりだったが、さらに上を見据えていた。

選手とクラブがここで出会ったことは、実は偶然の出来事でもあった。ツォルニガーは前シーズン、シュトゥットガルトのAユーゲントと1FCニュルンベルクの試合をスカウトとして訪れた。しかし、キミッヒを見に来たわけではなかったそうだ。

試合を見てみると、キミッヒは激しい痛みをこらえてプレーしているのに気が付いたという。3年以上も恥骨の怪我に悩まされており、時々激しい痛みが襲っていた。しかし、キミッヒは痛みをこらえ、プレーを続けていたのだ。意思の強さが痛みを上回っていたため、休息を選ぶことはなかった。

だが、「もう二度と痛みを気にせずプレーすることはできないのではないか」という恐怖が少しずつキミッヒを蝕み始めていた。それから、キミッヒを獲得したライプツィヒは選択肢を与えなかった。ケガが完治してからでないと再びプレーすることを許さなかったのだ。そして3カ月が経過し、その時がやってきた。

2013年9月末、ウンターハヒンク戦でツォルニガーは、キミッヒを初めて出場させた。これがキミッヒのプロデビュー戦である。1週間後には、首位を走っていたFCハイデンハイムとのアウェー戦が控えていた。当時5位につけていたライプツィヒにとってはシーズンの雌雄を占う一戦であった。

霧が立ち込める。朝に降った雨の影響だった。難敵との試合に過酷なコンディションが重なった。ハイデンハイムはホームでほぼ1年間負けなし。「アルブスタディオン・ハイデンハイム要塞は難攻不落」と書かれた巨大な横断幕がハイデンハイムの応援席に掲げられると、22人の選手がピッチに現れた。その中にはキミッヒがいた。ここまでのシーズンで最も重要なゲームでツォルニガーはキミッヒをスタメンに抜擢したのだ。

そしてツォルニガーはキミッヒの素晴らしいパフォーマンスに感謝することになる。ドミニク・カイザーと共にキミッヒは「試合を決める存在」となり、2-0での勝利に貢献したのだ。それ以降、キミッヒはレギュラーの座を確保していくこととなる。

ピッチの外でも、キミッヒはライプツィヒにどんどんなじんでいき、暮らしやすい環境を作っていった。ガールフレンドのリナ・マイヤーと出会ったのもこの頃だ。ちなみに今では子供ももうけている。

ホテルからアパートに引っ越し、前年夏にライプツィヒに移籍したチームメイトのユスフ・ポウルセンとはシェアハウスを始め、「ヨーは僕よりプロフェッショナルだった。『秩序は不可欠だ』というモットーをいつでも守っていたんだ。その点では彼からは多くを学んだよ」と明かす。また、ツォルニガーによれば、学んだのはポウルセンだけではなかったそうだ。この頑固なドイツ人は、おそらく気楽なデンマーク人から得るものがあったのだろうと証言している。

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一方で、ライプツィヒで陸上競技の監督をし、世界的な棒高跳び選手であったティム・ロービンガーは、キミッヒの体作りをサポートしていた。少年時代からシュトゥットガルトで感じ続けた反発心をエネルギーに、キミッヒは様々な個人競技に打ち込んだ。その結果、ライプツィヒでキミッヒは肉体的にも成長したのだという。

「立ち止まることは彼にとって最悪の選択肢だった。ヨーは、切羽詰まったように、どんな練習も必死にこなしていた。どうすればもっと成長できるのかを知るため、まさにできることは何でもやっていたんだ。ヨーとならどんな戦いにも勝てるんだ。彼は逃げるようなことはしない。行動で示すタイプなんだ」

ライプツィヒにいる間、二人には特別な友情が芽生えた。ロービンガーが白血病に倒れたときには、キミッヒは病院へ見舞いにも訪れている。

シュトゥットガルトの時と同じように、キミッヒは最初から、ただのレギュラー選手以上の存在になろうとしていた。ここでもチームのリーダーシップを取るべく努力していた。一つ違うのは、率いられるチームメイトは同じ年とは限らないということ。年上の選手も、経験豊かな選手もいた。しかしキミッヒはそんなことお構いなしだ。ツォルニガーは語る。

「彼は並々ならぬ要求をしてチームをまとめようとした。チームメイトのプレーに満足しなければ、それを本人に直接伝えていた。ベテランでもタレントでも関係なしだった。とにかく口うるさく物を言うことができたんだ」

キミッヒは自分をよく見せることに興味はなかった。しかし、キミッヒの小言をチームメイトは快く受け入れており、関係性は良好だったとツォルニガーは話す。「彼のやり方は確かに疲れるが、チームメイトは、彼が何を意図しているかすぐに気が付いていたから、加入当初からチームの人気者だったと思うよ」。

キミッヒが加入した1年目、クラブはブンデスリーガ2部に昇格。ライプツィヒはクラブ最高額でテレンス・ボイドを迎え入れた。ボイドはユース時代、ボルシア・ドルトムントでのプレー経験があり、ラピード・ウィーンでヨーロッパリーグを戦ったほどの選手だったが、加入すると19歳のキミッヒに教えを乞うていた。ボイドはキミッヒについて「考えたこともない状況だったよ。『どうした、何か問題でもあるのかい?』なんて言ってくるんだ。彼のプレーはリーダーのようだった。前を進み、皆を率いていくんだ。誰もがチームに欲しがる選手だね」と語っている。

ライプツィヒでの2年間で肉体的にも成長したキミッヒは、自身がプロサッカーの世界でも中心を担える存在だと確信できた。さらに、彼にとって新しく、慣れない戦術にも向き合った。シュトゥットガルトではポゼッションで支配するサッカーをしていたが、ライプツィヒでは素早い攻撃を求められた。「VfBから私たちのところに移籍し、彼にとっては精神的に楽ではなかったでしょう。全く違う世界だったわけですから」。ツォルニガーはこう語る。

つまり、キミッヒは全く正反対の戦術論を若くして身に着けたのだ。しかし、自身と、彼の思い描くイメージに合っていたのは明らかにポゼッションサッカーだった。そう、ペップ・グアルディオラ監督がバイエルンで彼に教え込むこととなるフットボールだ。

初めてグアルディオラがキミッヒを見たのは、1860ミュンヘンで行われたアウェーゲームだった。そしてすぐに強い興味を持ち始めた。正確なパスを出すことができ、抑えられないほどの野心を持ちながらもチームに順応できる。グアルディオラのような監督にとっては是が非でも欲しいタイプの選手だ

キミッヒはライプツィヒでの2年目のシーズンを2部5位という成績で終えた。するとシュトゥットガルトは150万ユーロを支払い、買い戻しオプションを行使。するとバイエルンに850万ユーロ(約10億6000万円)で売ったのだった。Aユーゲントで1年過ごし、3部と2部で1年ずつを過ごしたキミッヒは、20歳にしてようやくブンデスリーガ1部にたどり着いたのだ。

■バイエルンで中心になるまで(2015年~)

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2015年夏、バイエルンの練習が始まった。世界王者に輝いたチームは、新たなタレントを迎え入れた。ヤン・キルヒホフはこの状況をよく理解していた。彼自身、2年前にマインツからバイエルンに加わり、同じ経験をしていたからだ。この夏、キルヒホフはシャルケへの期限付き移籍から戻ってきたところで、キミッヒ合流後初のトレーニングセッションを共にしていた。当時の思い出は5年経った今でも鮮明だという。

「もちろん彼の才能も印象的だったけれど、もっと印象に残ったのは彼の姿勢だね」

チアゴとキミッヒ。数年後にバイエルンの中盤を構成することになる2人だが、当時からグアルディオラお気に入りの「生徒」だった。キルヒホフは「グアルディオラは本当に最初からヨーに特別な何かを感じていたんだ。だから彼に長い時間を費やし、気にかけていた。彼はいつでも、もっともっと自分を出したいと思っていた」と説明する。

当時、選手たちとコーチングスタッフは共に仕事ができることを楽しんでいた。チームを完璧なものにしようと全員が努力し、同じだけ没頭し、その努力を何とか続けようとしていたからだ。2016年3月、あれほど見ていて美しく、同時にぞっとするような瞬間はなかったかもしれない。バイエルンはドルトムントと0-0で引き分け、首位の座を守ったのだ。

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終了のホイッスルが鳴ると、グアルディオラはセンターサークルまで駆けつける。ジグナル・イドゥナ・パルクの8万人の観衆が見下ろす中、降り注ぐ照明を浴びた。グアルディオラの向かった先には、キミッヒがいた。この試合ではセンターバックとして起用されていたキミッヒの前にグアルディオラが立った。グアルディオラの手が荒々しく動き出す。そしてキミッヒと長々と話し、ハグをした。さらに額をキミッヒの額につけ、また話し出した。後に、グアルディオラが明かしたのは、キミッヒが望まない役割を担ったことを称賛しながら、同時に戦術を無視したことを注意していたという。

キミッヒ自身は「彼は何かに気が付いた。そしてそれを伝えなくてはいけなかった。一日たりとも待てなかったんだ。そして、こういう状況になったら、すぐに改善しようとするのがベストだと思う」とペップの言動に理解を示している。

始めは、グアルディオラはキミッヒをMFとして起用していた。しかしシーズン後半になり、DFが次々と離脱すると、グアルディオラはキミッヒをセンターバックにコンバートした。176cmと長身ではないにも関わらずだ。フランスで行われたEURO2016でもキミッヒはヨアヒム・レーヴ代表監督のもとで右サイドバックの定位置を確保。チームを決勝トーナメント進出に導いた。

中盤、センターバック、右サイドバック――。キミッヒは多くのポジションで経験を積んだきたが、それが自身のキャリアにとって足かせになるとは思っておらず、逆にチャンスだと考えていた。ライプツィヒでこれまでと違う側面からサッカーを学んできたし、今度は様々なポジションからサッカーを知ることができたのだ。バイエルンでの2年目のシーズン、キミッヒは中盤とディフェンスラインを行き来したし、ベンチにも置かれた。しかし2017年夏からは、右サイドバックに定位置を確保することとなる。

キミッヒはいつも、サッカー以外の世界から新たな視点を学びたいと思っていた。時間を有意義に使いたがり、ゲーム機をいじることは嫌がった。例えば、当時チームに多かったスペイン語圏の選手ともっとうまくコミュニケーションをとりたいと考え、スペイン語を習い始めた。しかも、ほぼ2年間やり通したのだ。コロナ禍では、同僚のレオン・ゴレツカと共に「We Kick Corona」を設立。すでに500万ユーロ(約6億3000万円)以上の寄付金を集め、社会に還元している。

キミッヒが何かをするときは、いつも正しくあろうとする。余暇でテニスをやるときも、遊び仲間によると、普通に遊びでテニスをやるようなメンタリティではないという。常に勝利しようという意思があるのだそうだ。この強い意志をキミッヒが忘れることはない。自由時間でも仕事中でも、練習中でも試合中でもだ。キルヒホフが言うには、その意思が仲間にも伝わっていくのだ。

シュトゥットガルトやライプツィヒにいた時のように、キミッヒはバイエルンでもレギュラーの座を求めるだけに留まらなかった。このことを裏付ける素晴らしい逸話をたくさん聞くことができた。2017年の夏、ニクラス・ジューレがバイエルンに移籍してきた。移籍後初の練習を少々リラックスムードで過ごしていると、キミッヒは彼を呼んでこう言った。「ニキ(ジューレの愛称)、もうちょっと動けるだろ?」ジューレはキミッヒと同い年だが、彼は「厳しいお父さん」のようだと思ったという。また、キミッヒは試合が終わると、ニャブリをはじめ同僚にメッセージアプリで、試合のパフォーマンスのまとめや、改善案をよく送っていたという。

U16ドイツ代表で身体の発達が遅かったキミッヒは、ジューレやニャブリに遅れを取っていた。U19までのキミッヒは、どの世代の代表でも中心的な役割を担うことはできなかった。しかし20歳を超えると、キミッヒの存在は必要不可欠になった。レーヴ監督の下では他の同世代の選手よりも早くレギュラーに定着。今や彼らを先導する、世代のリーダー的な存在となったのだ。

22歳になったキミッヒは、短い時間ながら代表チームのキャプテンマークを巻くことも許された。世界チャンピオンに輝いたフリッツ・ヴァルター、フランツ・ベッケンバウアー、ローター・マテウス、フィリップ・ラームらよりも若くしてキャプテンになったのだ。キミッヒは先人たちに並び立つべく、道を歩んでいる。代表でもバイエルンでも、いずれマヌエル・ノイアーの後継者として正式にキャプテンに指名されるだろう。

■振る舞いは主将そのもの

Joshua Kimmich BayernGetty Images

アームバンドを巻くかどうかに関わらず、キミッヒのゲームでの役割は重要度を増している。

また、勝っても負けても、ミックスゾーンでの記者の質問にはいつでも答える。他の誰にもできることではない。彼がどれほど真摯に受け答えしているか、文字通り感じられるのだ。しっかり正面を見て、質問者にはアイコンタクトを絶やさず、時々目を輝かせ、言葉遣いも思慮深い。質問が批判的なものでも全く嫌な顔はしない。目上の人からの質問かどうかも、彼には全く関係がないのだ。

例えばキミッヒはレーヴ監督に対して、ジェローム・ボアテング、マッツ・フンメルス、トーマス・ミュラーらの扱いについて歯に衣着せず批判的な意見を口にしている。ウリ・ヘーネスに対しても、代表チームでのマヌエル・ノイアーとマルク=アンドレ・テア・シュテーゲンのGK争いに意見したことについて批判していた。

さらに昨年、バイエルンがパーダーボルンを3-2で破って首位に立ったときのことだ。パフォーマンスに納得していなかったキミッヒは臆することなくチームに苦言を呈した。

「今シーズンは90分間試合を支配できていない。快勝したこれまでの試合でも、そうだったとは言い切れない」

カール=ハインツ・ルンメニゲ会長と、スポーツディレクターのハサン・サリハミジッチ氏はすぐにキミッヒを呼びつけた。もっと穏やかに発言するよう求め、スポーツマンらしいリアクションをするよう伝えた。いずれにせよ、FCバイエルンはその次の試合でチャンピオンズリーグを戦い、トッテナムに7-2で勝利した。1-1とする同点ゴールを奪ったキミッヒの活躍があってこその勝利だった。

「今後もそうするだろう。それは僕の意見だから」。後にキミッヒは自身の発言への批判についてこう語っている。さらに「誰も僕の意思を曲げることはできないよ」と今後も自身を変えるつもりはないと主張する。

バイエルンに関わる人ならすぐ分かることだったが、あの試合でのバイエルンは、確かにすべてが完璧とは言えなかった。数週間後、クラブはニコ・コバチ監督を解任し、ハンジ・フリックを迎えた。フリックは就任直後からキミッヒをチームの要とみなした。代表でのレーヴのように、クラブでもセントラルMFでレギュラーに据えたのだ。

「中盤ではチームメイトと距離が近いから、もっと影響を与えられるような気がするよ」

キミッヒは手応えを語る。そして、その影響はまさに驚異的だった。2015年にバイエルンに移籍してから、キミッヒは誰よりもクラブのパフォーマンスに影響を与えてきた。加入以降、キミッヒはリーグ戦で12515回のボールタッチを数えた。リーグ2位のマッツ・フンメルスを500回以上も上回る数値だ。

MFに活躍の場を移したことで、今シーズン、キミッヒがバイエルンに与える影響力はこれまでに比べてずっと大きくなった。中盤からのパスの散らし方に文句は付けられない。25歳となり、未来は今まで以上に明るい。世界最高のクラブと母国で紛れもない中心選手となる道を歩み始めている。

CL再開以降はバンジャマン・パヴァールの負傷に伴い、右サイドバックに戻った。SBでの起用でありながら、3試合で1ゴール3アシストと目覚ましい活躍を見せたが、決勝のパリ・サンジェルマン戦では中盤復帰の可能性が伝えられる。中盤の中心選手としてビッグイヤーを掲げる準備はできている。

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