不定期連載『スペイン通信』:ベルナベウで生き続ける、もう一つの「背番号7」(上)

没後20年目を迎える
32回目のリーガエスパニョーラ優勝を果たしたレアル・マドリーだが、2011-12シーズンにはもう一つ大きな意味があった。サンチャゴ・ベルナベウで毎試合7分に叫ばれる「イジャ・イジャ・イジャ! フアニート・マラビージャ(美しきフアニート)!」というコールの主人公であるフアン・ゴメス・ゴンサレス、通称フアニートの没後20年目を迎えたのだ。

マドリーの背番号7の系譜に名を連ねるストライカーは、真の天才プレーヤーであった。イマジネーションあふれるボールタッチ、予測不可能な切り返し、ここぞという時の決定力…。ファンタジスタという言葉を体現する選手だったフアニートは、闘志をむき出しにする姿勢も相まって、マタドール(闘牛士)と称された。

一方で、その炎の塊のようなキャラクターは時に彼を抑止不可能な闘牛に変え、一部のマドリディスタからマドリディスモを傷つける存在として忌み嫌われた。だが、交通事故による悲劇的な最期、無常なる時間の経過が、擁護派と否定派を一つにまとめた。「骨の髄までマドリディスタ(本人談)」であった事実によって、フアニートはベルナベウで生き続ける伝説となったのだ。今回の『スペイン通信』では、現地マドリディスタが語り継いできたフアニートの物語を紹介したい。

年齢を詐称して上の年代でプレー、13歳でアトレティコに加入

1954年11月10日、フアニートはマラガのフエンヒローナで、5人兄弟の長男として生を受けた。ほかのスペイン人、またマラゲーニョ(マラガの人間)の家庭と同じように、小さい頃から父親の手に引かれて試合を観戦する日々を送り、すぐにフットボールへの情熱に目覚めた。

その約束された才能は同年代の選手たちを置き去りにし、年齢を詐称してフベニール(15~18歳)のチームでプレー。そして13歳のフアニートにオファーを提示したのは、当時マドリー、バルセロナとともにスペインの3大名門クラブに数えられるアトレティコ・マドリーだった。トランクを持ってスペインの首都へ移ったフアニートは、正真正銘の15歳となった1969年11月10日に、ロヒ・ブランコ(アトレティコの愛称、スペイン語で赤白の意)のフベニールのチームでデビュー。順調にアトレティコ、またスペイン代表の各年代のチームを駆け上がっていった。

しかし、信頼していたBチーム指揮官の退団が、彼が今後キャリアの中で何度も苦しむことになる癇癪(かんしゃく)の始まりだった。負傷での戦列離脱をきっかけに、新監督率いるBチームで戦力外に。アトレティコはカルボ・ソテロというクラブへのレンタル移籍を勧めたが、これが彼の逆鱗に触れた。すべてを放り投げて、フエンヒローナの実家に戻ってしまったのだ。しかし、アトレティコのトップチームを率いていたマックス・メルケルが事態の収拾に動いた。若き才能がつぶれることを惜しんだドイツ人指揮官はクラブに和解を促し、結果的にフアニートは契約金25万ペセタ(約15万6000円)、給料2万2500ペセタ(1万4000円)でプロ契約を結んだ。

だが、プロキャリアのスタートを切った1972-73シーズンが、バラ色に染まることはなかった。トップチームで少しずつ出場機会を増やしていったが、ベンフィカ戦で脛骨と腓骨を骨折し、シーズン、そしてロヒ・ブランコに「アディオス」と告げることになった。不屈の精神によって長いリハビリを克服したが、トップチームのベンチには、解任されたメルケルの代わりにフアン・カルロス・ロレンソが座っていた。このアルゼンチン人指揮官は未加工のダイヤモンドを扱う術を知らず、夜遊びを繰り返すなど規則を守らないフアニートとことあるごとに衝突。両者の関係は修復不可能なまでに破綻し、フアニートはレンタルでリーガ2部のブルゴスへと移籍した。

ブルゴスで輝きを見せ、ついにマドリディスタに

アトレティコでの失望を引きずり、ブルゴス加入のシーズンは荒れに荒れ、ピッチ内外で数多くの問題を引き起こした。本人も後に「本当に馬鹿げたことをしていた」と認める最悪のシーズンだったが、完全移籍した次シーズンには、眩惑的なドリブル、ゴールゲッターとしての才能を示してファンの心をつかんだ。

1975-76シーズンには2部優勝に貢献し、1976年のモントリオール五輪でもプレーした。リーガ1部でプレーした1976-77シーズンには、32試合に出場して9ゴールを記録。圧巻だったのはエスタディオ・マンサナレス(現ビセンテ・カルデロン)での古巣アトレティコ戦で、このシーズンの王者相手に独壇場とも言えるパフォーマンスを披露して、3-0の勝利に貢献した。アトレティコ戦での強烈な印象もあって、スペインの格式高いサッカー雑誌ドン・バロン(2011年に廃刊、当時は創刊2年目だった)からシーズン最優秀スペイン人選手に選出された。23歳のマラゲーニョのプレーは、スペイン国内で語り草となっていた。

1976-77シーズン終了後には、一度フアニートを見捨てたアトレティコを含め、スペイン3大クラブが手段を問わない獲得合戦を繰り広げた。フアニートはマドリーのオファーを気に入り、公の場でエル・ブランコ(マドリーの愛称、白の意)に移籍する意思を告白。そして1976年11月、フアン・ゴメス・ゴンサレスは2700万ペセタ(約1700万円)の契約金によって、マドリディスタとなったのだった。

文/江間 慎一郎