トヨタカップで2度の優勝を飾ったユーゴビッチ

レッドスターとユヴェントスでクラブ世界王者に
ウラジミール・ユーゴビッチは、いつも国際舞台での成功を逃し続けてきた。1987年にはU-20ユーゴスラビア代表がチリに乗り込んでワールドユースを戦い、すべての試合に勝利。ブラジルと東ドイツと開催国を下した後、決勝ではPK戦で西ドイツを破ったが、当時18歳のユーゴビッチはメンバー入りを果たせなかった。

1990年ワールドカップ(W杯)を迎えた時点では、彼はまだレッドスター・ベオグラードで十分に頭角を表してはおらず、やはりイタリア行きのメンバーに入れなかった。ユーゴスラビアは準々決勝まで進み、ファイナリストとなるアルゼンチンにPK戦の末に敗れる結果となった。統合された国家として国際舞台で戦う望みは、この大会を最後に絶たれる。ユーゴスラビアはEURO92本大会と1994年W杯予選から閉め出されることになった。

だが、代表チームでは幸運に恵まれない一方で、ユーゴビッチはクラブレベルでははるかに大きな成功を収めることができた。1998年フランスW杯でようやく大舞台に立つチャンスを得る頃には、すでにトヨタカップで2度の世界制覇を経験し、セルビアのサッカー史上最も成功を手にした選手になろうとしていた。

人口約2千人の村ミルトバツで1969年に生まれたユーゴビッチは、15歳の頃にレッドスターに見出される。同クラブの元選手で、引退後に強い影響力を持つユースコーチとなっていたトミスラフ・ミリチェビッチの手によって、トップチームへの道を駆け上がっていった。

ロベルト・プロシネツキを若くして起用していたレッドスターだが、ユーゴビッチの本格的な起用には自信を持てず、1989-90シーズンには彼ををラドへレンタルに送り出す。16試合で7ゴールを記録した彼はすぐに復帰を果たし、リュプコ・ペトロビッチ監督をラドから連れて来ることになった。伝説的な元選手であったドラゴスラフ・シェクララツが不名誉な形で監督の座を去った後任だった。



新監督として力を発揮したペトロビッチに率いられ、レッドスターは1991年5月にバーリでPK戦の末にマルセイユを倒してチャンピオンズカップ優勝を果たす。試合自体は0-0の低調なもので、どちらの試合も勝利にふさわしいものではなかった。「欧州カップの歴史上最も退屈な決勝戦だったと思う」とシニシャ・ミハイロビッチは20年後に『Sportal』に語っている。

「試合の数時間前に、我々7人の選手にマルセイユの試合のビデオが見せられた。『攻め込んだとすれば、カウンターの危険にさらされることになる』とペトロビッチは話していた。『それならどうするんですか?』と聞けば、『ボールを持ったら相手に返すんだ』という答えだった。それで、レッドスターはほとんどボールに触ることなく120分間を過ごすことになったんだ」

ユーゴビッチは特にプレーを制限され、ディフェンスラインの前に残っていた。プロシネツキとデヤン・サビチェビッチはボールを前に運ぼうとしていたが、実を結ぶことはなかった。だが前者がレアル・マドリーへと売却されたことで、レッドスターが初のトヨタカップ出場のため東京を訪れたときには、ユーゴビッチにより自由に動き回ることが許されるようになった。

ユーゴビッチはこの試合で2ゴールを記録。1点目はエリア内へ飛び出しての巧みなフィニッシュ、2点目はゴール前での混戦を押し込んだゴールだった。チリのコロコロとの対戦でチームを3-0の勝利に導いた彼はマンオブザマッチに選出され、巨大な鍵とともにトヨタの新車を手に入れて帰国することになった。「困難なサッカーの世界の中で、本当にやっていけると自覚できたのが東京での試合だった」と彼は語る。

どの形式の大会であれ、旧ユーゴスラビアのクラブが欧州チャンピオンと世界チャンピオンになったのはこれが初であり、おそらくは最後の例にもなりそうだ。

「何も特別じゃない、ごく普通のことだった。全員が誇りを感じていたが、今になって振り返ると、本当にとんでもないことだったと言える」とDFイリヤ・ナイドスキは2011年に『Blic』で語った。「自分たちが何を成し遂げたのか、今になって分かる。良い奴らが集まっていた世代だったし、素晴らしい雰囲気こそが一番の武器だった。選手たちの間で争いもなく、一人だけ目立とうとすることもなかった。4年間ずっと家族のように過ごして、お互いを尊敬し合っていた」



謙虚な性質と底知れない才能が相まって、ユーゴビッチはトップに上り詰めた。シェクララツが派手な選手だと見なされ、不十分な結果を華麗さで覆い隠していたのとは対照的に、ユーゴビッチはユーティリティー性に優れる利他的な選手で、中盤が自分を中心に構成されることを要求はしなかった。だからこそセリエAの4クラブとアトレティコ・マドリーでもプレーすることになり、1996年にユヴェントスでもう一度トヨタカップを制することにもなった。

彼は再び勝利を収めた。アレッサンドロ・デル・ピエーロとアレン・ボクシッチの後ろでアンジェロ・ディ・リーヴィオ、ジネディーヌ・ジダン、ユーゴビッチがプレーする恐るべき攻撃陣だったが、老貴婦人が必要としたのは1ゴールだけだった。5万人近いファンが見守る中、デル・ピエーロの試合終盤の1点でリーベル・プレートを葬り去る。ディディエ・デシャンが後方を支える中盤の3人が流れるような連係を見せた後、ディ・リーヴィオのニアポストへのCKがデル・ピエーロへとこぼれ、ワントラップからのシュートがネットの天上へと突き刺さった。

これだけのスター選手たちに囲まれながらも、この数カ月前に行われたチャンピオンズリーグ決勝で、アヤックスに対してユヴェントスが勝利を決める4本目のPKを蹴ったのはユーゴビッチだった。EURO2004イングランド戦で重要なPKを蹴る前にジダンが嘔吐したことはよく知られているが、この場面でより強いプレッシャーに晒されながらも、ボールを蹴り込むユーゴビッチは笑顔を浮かべていた。

「決して忘れることはないよ。あの12ヤードからのシュートは、記憶の中に刻み込まれている。ゾッとする感覚も、チームメートたちの抱擁も、ファンの喜びもすべてがね」

文/オリバー・プラット