坂田大輔・連載コラム「ギリシャ戦記」(9):大切なもの

子供の頃からJリーグ、さらに今もギリシャでともに生きるサッカー、そして…
サッカーとの出会い

前回お話した4連休は、アテネに行ってきました。アテネ周辺には、もう知らないところがない、というくらいに歩き回りました。アクロポリスなど見どころは丘の上にあるところが多いので、足腰のトレーニングにもなったし(笑)。それに、目当てだった日本食も堪能しました。毎日食ってやろう、というくらいの意気込みで向かいましたからね。

アテネは相当な都会でしたね。日本人らしき人も、1時間に1回は見かけました。テッサロニキでは、まず日本人に会うことはありません。

サッカーをやることでプロ選手にもなれて、海外に出ることもできました。ギリシャに来られたのも、サッカーをやっていたおかげなんだなあと感じます。

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サッカーを始めたのはいつかとよく聞かれますが、正直よく覚えていません。たぶん幼稚園の年長クラスか小学校1年生の頃だと思います。ただ、昔のことを思い出せと言われたら、記憶にあるのはサッカーをしていたことくらいです。

昔から、ずーっとFWでした。いろいろなポジションをやったけど、点を取るのはいつもオレ。そういう意味では、ずっとストライカーでした。リフティングやフェイントなどはほかにもうまいやつがいて、技術的に一番ではなかったけれど、トータルで言えばオレが中心という感じ。野庭キッカーズというチームで、県大会でもいつもベスト4に入るような強いチームでした。

Jリーグが開幕したのは、小学校5、6年生の頃です。ファンだったのは、横浜マリノス。上下ともマリノスのユニフォームを着て、学校に通うほどでした。ジュニアユース(中学校年代。以下、JY)のチームがあるということを知って、進路をどうするか聞かれた際、JYのテストを受けることにしました。

願書を出して、テストを受けることになったのですが、その前に横浜のもう一つのチームである、横浜フリューゲルスの大会に招待チームとして参加しました。その大会では、準優勝。すると、フリューゲルスJYの監督さんが見たのか、「うちに来ないか」と声をかけられました。

とりあえず、マリノスのテストを受けました。グッズももらえたし(笑)。2次試験は紅白戦だったのですが、途中で「GKに入ってくれないか」と言われました。ここで感覚的に悟りましたね。ああ、受かったな、と。

試験が終わった後には、練習に通う時間の問題などで、「この試験に受かっても来られない人は?」と聞かれました。そのとき、なんであんなことをしたのか、よく分かりません。オレは、手を挙げていました。「フリューゲルスに行こうと思っています」って。たぶん、スカウトされたということに、グッときていたんだと思います。横浜トレセンで指導してくれていたマリノスのコーチは、「どうした、坂田!?」と驚いていました。誘いを断ってしまったわけで、もう一生マリノスに行くことはないな、と感じていました。

フリューゲルスは、言うなれば「雑草軍団」でした。マリノスJYに行った選手なら、横浜トレセンで一緒だったり、対戦した強いチーム同士ということで、お互い顔を知っていました。比べてフリューゲルスのチームメートは、知らないやつばかり。でも、実は中学1年の夏に、マリノスJYと試合をして、引き分けているんです。あれは「あのエリート軍団と!」って誇らしかったなあ…。

JYでプレーすることには、誇らしさを感じていました。入れない人もいるわけですから。2年生の頃には、背番号10を着けて、高円宮杯(全国大会)で準優勝しています。で、中3の頃のオレは、まさに天狗(笑)。憧れていたゾノさん(前園真聖。当時フリューゲルスでエースとして活躍)と同じ「攻撃的MFで背番号7がいい」なんて言っていましたからね。

周りには「遊びたい」と辞めていく選手もいました。確かに中学校になると、自転車や電車に乗ってどこかに行ったりするなど、地元で遊びたいという気持ちはありました。特に夏休みは、地元の友達がどこかへ出かけたりしているのが、うらやましかった。それでも、サッカーは楽しかったし、「今」を生きていた。

忘れられない1年間


先のことは特に考えず、プロになったらどうなるのかなんてことも、よく分かっていなかった。それでも、漠然とプロになりたいとは思っていました。ユース(高校年代)に上がるシステムも分かっていなくて、ある日コーチから「ユースに上がれるぞ」と言われて、“流れ”で昇格したという感じです。周りには昇格できない選手がいたので、「すごいことなのかな」と感じる程度でした。

ユースに上がった最初の1年間のことは忘れません。JYで一緒にやっていた1つ年上の人たちも、見違えるほどスピードと強さが上がっている。中3の頃は気ままにやっていたけど、これは通用しないんじゃないかと感じましたね。練習もあまりにきつくて、何度も「もう辞めたろうか」と思いましたね。

そして、マリノスとの合併です。

朝、母親に「ニュース! ニュース!」と起こされました。そんなことも初めてなら、コンビニでスポーツ新聞を買ったのも初めて。オレたちはどうなるんだろうと思いながら、学校で新聞を読んでいました。

さすがにマリノスに行くのは断ろうと思っていました。会社が経済的にどうこうなんて、理解できない。敵として戦ってきたチームと仲間になるなんて…。周りには、「高校サッカーでヒーローになろうかな」なんて話していました。実際は、自分の高校のサッカー部員が何人いるかも知らない。もう、辞めようかな、ということですよね。それでも、監督が「オレは行くから付いてこい」と言ってくれたので、「それならば」と皆でF・マリノス(合併後にフリューゲルスの「F」を取って改称)に加わることになりました。

最初にマリノスのグラウンドで練習することになったとき、フリューゲルスの選手たちの方に、大きなロッカールームが用意されました。そこからして、マリノスの選手は面白くない。最初は両方の選手のライバル心はハンパなかった。

年度が変わって、それまで3チーム分いた選手を、AとBの2つのチームに分けました。すると驚くことに、トップチームに残ったのは、見事にフリューゲルスだった選手ばかり。エリート軍団に、まさか雑草軍団が勝つとは。実際、これで辞めていったマリノスでレギュラーだった選手もいます。

逆に、これがきっかけでプロになった選手もいます。一緒にトップチームに昇格した同期は合併前、「もうチームに残るのは厳しいかもしれない」と言われていました。それが合併により全員が残ることになり、プロ入りもできた訳です。オレもJYでなぜかフリューゲルスを選び、もう行くことはないと思ったマリノスに入った。本当に、何が起こるか分かりません。

高校2年の終わり頃には、3年生にとっては最後になる大会がありました。でも監督は3年生を引退させて、オレたち2年生でチームをつくりました。その全国大会では、準優勝。「オレたちはすごい」と感じたチームは、見事にマリノスとフリューゲルスの選手が5人ずつで、GKが1つ年下のテツ(榎本哲也。現横浜FM)。オレたちの代は、7人がトップチームに昇格しました。後にも先にも、あれだけ多くの選手が昇格することはないんじゃないでしょうか。

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オレは目標から逆算して物事を進めるタイプではありません。今を生きる。大好きなサッカーをし続けてきてプロになったし、だからこそ海外にも飛び出せた。サッカーのためなら、走ることも筋トレも、つらくても苦にならない。合併のときには一瞬頭をよぎったけど、本当にサッカーを辞めようと思ったことはありませんでした。

プロ選手を目指す子供がいるなら、サッカーを仕事にする喜びを伝えたい。好きなことを職業にできるのは本当に大きな喜びで、こんなに良いことはありません。それで人を感動させられたり、喜び―時には悲しみもあるけれど―を与えられるなんて、最高でしょう? 満員のスタジアムで声援を受けてプレーするのは、本当に鳥肌モノです。

だから自分の子供にも、何か好きなものを見つけてほしい。勉学に励んでもいい。教えられるから、サッカーならば、なおさら良いけど。

3月24日、息子が生まれました。



~プロフィール~
坂田大輔(さかた・だいすけ)
1983年1月16日生まれ、神奈川県出身。2001年に横浜F・マリノスユースからトップチームへ昇格。プロ初年度から出場するなど、活躍した。03年にはU-20日本代表としてUAEで開かれたワールドユース選手権に出場し、得点王に輝いている。06年にはイビチャ・オシム監督の下、フル代表としてキャップも刻んだ。J1通算247試合46得点の記録を残し、今年1月にギリシャ・スーパーリーグのアリス・テッサロニキに移籍。オフィシャルブログはhttp://ameblo.jp/guapoblog/