インタビュー 澤昌克(1):波瀾万丈の南米挑戦

アルゼンチンとペルーでの7年間
高校卒業後に南米に渡り、アルゼンチンとペルーでプレーしたあとJリーグに加入したという異色の経歴を持つ柏レイソルMF澤昌克。同選手に波瀾万丈の経歴や、日本のサッカーへの思いをうかがった。インタビュー第一部では、アルゼンチンとペルーで過ごした同選手の7年間を振り返る。

インタビュー/GOAL JAPAN編集長 チェーザレ・ポレンギ(@CesarePolenghi)


「(高校卒業後に)大学でサッカーをしようというのも考えてはいたんですが。子供の頃、南米に行ってサッカーをやりたいと母親に言ったら、『もう少し大きくなって、高校卒業してから、そのときにまだ海外でサッカーしたいという気持ちがあるんだったら』と言われたことがあったんです。それがずっと頭の中にあって。ちょうど高校を卒業するときに、恩師に『アルゼンチンに留学してみないか』といきなり言われて。可能性があれば行ってみたいです、と」

幼少時に目にしたディエゴ・マラドーナがサッカーへの憧れの原点だったと語る澤は、18歳で単身アルゼンチンに渡り、リーベル・プレートの下部組織に加入。未知の世界に飛び込むことに恐怖心はなかったのだろうか。

「全然怖くはなかったです。(ブエノスアイレスは)すごくいい街で、南米のパリと言われているだけあって建物も綺麗だし、ゴハンも美味しいし。人も南米人なので気さくだし。でもピッチの中に入るとみんなイジワルですね。ボールは来ないし、削ってはくるし」

南米屈指の名門チームであるリーベルでは、トップチームで大勢のスター選手たちがプレーしているのはもちろん、下部組織の選手たちも未来のスター候補ばかりだ。澤が一緒にプレーした選手たちの中にも、世界へ飛躍した者は多い。

「当時、僕はユースの18歳以下のチームだったんですが、同期にはフェルナンド・カベナギとか、一つ下には今バルセロナのマスチェラーノとか、マクシ・ロペスとか。一緒に練習をしたことも何回かあります。そのもう一つ下にはナポリのイグアインとか。トップチームにはサビオラとか、ダレッサンドロとか、オルテガ、ガジャルドなどがいた頃ですね」

「最終的には、リーベルのプロ契約というのはすごく難しいし、デビューするのでさえ大変なことなので。それはできませんでしたけど、リーベルのユースでプレーすることでも選手としてそれなりに価値が高まるので、トップに上がれなくても違うチームとプロ契約できたりということはあります」

名門クラブの下部組織で貴重な経験を積んでいた澤だが、ここで大きなケガに見舞われる。とはいえ、通常のサッカーで起こり得るレベルの大ケガではなく、第二頚椎骨折という一見して深刻なものだ。

「日本に一時帰国する1週間前で、その年(2003年)の最後の練習だったんですけど。出場の予定がなかった練習試合に急に出ることになって、出場して5分後くらいに競り合いがあったんですが、ヘディングしようと思ったら相手がかがんだので、その上に乗っちゃたんですよ。そこからはちょっと覚えてないですが、たぶん頭から地面に叩きつけられて、顔面とか血だらけだったらしくて。その後すぐに病院に連れて行かれて、検査したらポッキリ折れてました」

首の骨折という、生命に関わりかねない大ケガだが、骨折のみで神経に影響が及ばなかったことが不幸中の幸いだったようだ。サッカーを諦めることは頭にも浮かばず、自然とプレーを再開したと語る澤は、治癒後に再び南米に渡ることになった。

「日本に帰国して医者に見せて、時間が経つにつれて徐々に症状も良くなって、半年以上かかったんですけど治りました。それからまたリーベルに戻って、100%の状態じゃなかったのでそう簡単に練習はさせてもらえなかったんですが、治療やリハビリをさせてもらって。そこで代理人からの勧めもあって、ペルーのスポルティング・クリスタルに練習生として1カ月くらい行くことになりました」

ペルーでは外国人選手として徐々に頭角を現し、大きな活躍を見せた澤だが、3年半で4つのチームでのプレーを経験している。一箇所に落ち着けなかったことには様々な複雑な事情もあったようだ。

「色々なことをやってみたかったというのもあるし、『もういらない』と言われたのもあるんですが。1年目は、ケガから治って1年間サッカーをしていなかったので、コンディションを戻すのにも相当時間がかかって。スポルティング・クリスタルは年間チャンピオンになって、コパ・リベルタドーレスに出場できることも決まりましたが、自分は戦力になれなかったので首を切られて、次の年は地方の小さなチーム(コロネル・ボログネシ)に。それでも一応1部だったので、そこでもう一回キャリアを積もうかなと」

「無名の日本人選手に、周りの人たちの目はすごく冷たかったです。何でわざわざこんな地方のチームに来たんだ、みたいな感じだったんですけど、試合に出て、結果を残していくたびにサポーターや選手との信頼関係も生まれました。その年は3位でフィニッシュして、自分もすごく良くできたという感触があったので、もう少し大きいクラブに行きたいなというのを代理人と話していたんですが、なかなか叶わず、結局首都リマにある、伝統的ではあるけど経済的にはすごく問題のあるチーム(デポルティボ・ムニシパル)に移籍することになりました。結局2部に降格はしてしまいましたけど、個人的な成績が良かったので、翌年、マチュピチュで有名なクスコという町にあるシエンシアーノというチームに行って、そこで初めてリベルタドーレスにも出ることができました」

スタジアム内外の両方で、南米でのサッカーを取り巻く雰囲気は日本とはまったくの別世界と言うほかない。澤も身を持ってそれを体感してきた。

「ここ(柏)はすごく(観客席が)近くて、サポーターと選手の間に柵などは何もないですけど、向こうは誰もよじ登ってこないように有刺鉄線が巻かれていたりして。意外と近いけれども、上を見上げれば絶対に登れないような柵があって、かなり迫力のあるそういうスタジアムでやることもできました。もちろん良いプレーができれば喜んでくれるし、ミスが多くなってくると罵声が多くなってくる。自分のチームのサポーターなのに罵声を浴びせられたりして、でも逆にそいつらを黙らせてやろうというくらいの負けん気というのはすごくありましたね。今もそうですけど」

「リベルタドーレスで、ホームでフラメンゴに負けて、ほぼグループリーグ敗退というところまで追い込まれてしまったんですが、その次の日からはまったく家から出られなくて。家族がいつも通り市場に買い物に行くんですけど、僕の嫁さんということは分かっているので、市場で働いている野菜売りのオジサンとかオバサンとか、色々な人がすごく文句言ってくるんですよ。あの日本人をもう日本に帰せ、とか。もうこのチームにはいらない、とか。何百人対ウチの嫁と子供だけだったので、言い返すこともできないし」

外国人選手として活躍する澤に対し、ペルーサッカー協会は正式に同国の代表チーム入りを打診したことがあった。ペルー出身の夫人と結婚していた彼には、日本の国籍を捨てることで、ワールドカップ(W杯)南米予選やコパ・アメリカを戦うという選択肢もあった。

「2007年に、外国人最優秀選手という賞ももらって、ペルー代表も相当厳しい状況だったので。監督から直々に電話がきて、サッカー協会と協力して、国籍を変えてペルー代表で戦ってくれないかと。考えましたね。悩みました。正直揺らいでいました。当時で言えばブラジル代表はカカーが全盛期だったし、アルゼンチンももちろんメッシがいたりしてすごい軍団で、こいつらと戦うのか、と想像するとワクワクもしましたけどね」

「でも我に返ったときに、海外のこの生活に慣れることはできたけれども、国籍まで変えられないな、というのは思いました。一度国際電話で両親に電話したとき、父親に『お前国籍変えたら絶縁だからな』って言われて、そこまでか、とも思ったんですけど。やっぱり慣れることはできても、流れている血は日本の血ですので。色々考えた結果、国籍は変えずに、(ペルーの)みんなのことを見守ろうという決断をしました」

ペルー代表を選んだ場合、日本代表でプレーできる可能性は消える。将来的な日本代表への招集への期待も、澤の決断の背景にはあったようだ。

「正直、まだあのときは若かったし、自分の中でもすごく勢いがあったので。ペルーのリーグで活躍して、ヨーロッパの方にステップアップすれば、もしかしたら(日本代表からの招集が)あるんじゃないかな、というのはやっぱり僕も考えていました」

「そのときに取った決断はまったく後悔していないですし、今こうしてある自分に対してまったく後悔はしていないです」