C・ロナウドを読む(2):負けず嫌いは子供の頃から

あだ名は「泣き虫」
Goal.comでは数週間にわたり、ルカ・カイオリ氏の新著「Ronaldo: The Obsession for Perfection」の一部をご紹介していきます。貧しかった幼少時代から、スターダムを駆け上がる様子を追っていってください。

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6歳にして、クリスティアーノはサッカー界への第一歩を踏み入れた。従兄弟のヌーノはアンドリーニャでプレーしており、クリスティアーノは父親と一緒に何度もグラウンドを訪れた。彼を観戦に招待したヌーノは、チームに入りたいかと尋ねた。クリスティアーノは練習に加わり、頑張っていこうと心を決めた。

ドロレスとディニスは末っ子の決断を歓迎した。サッカーが好きだったし、ディニスと上の子のウーゴはベンフィカのファンだった。一方でドロレスは、ルイス・フィーゴとスポルティング・リスボンを崇めていた。

1994-95シーズンには、9歳のクリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アベイロは、フンシャル・サッカー協会の会員番号17182という、初めてのスポーツライセンスを手に入れた。袖を通したのは、明るいブルーのユニフォーム。このクラブは長い歴史を持ち、設立は1925年5月6日にさかのぼる。アンドリーニャとはポルトガル語でツバメを意味し、この鳥が飛ぶ様子を連想させた伝説的なシュートにちなんでつけられた。

クリスティアーノの姉のカティアも教えた、小学校の教師であるフランシスコ・アフォンソは、25年間をマデイラのジュニアリーグでの指導に捧げてきた。彼こそがロナウドの最初の監督であり、7歳でアンドリーニャのピッチに立つ彼を目にした初めての時を、決して忘れることはなかった。

「サッカーこそが、クリスティアーノが生きる道だった」とアフォンソは話す。

「スピードがあり、素晴らしい技術を持っていた。それに左足でも右足でも、同じように上手にプレーできたんだ。やせっぽちだったけど、同い年の子らよりも頭一つ大きかった。間違いなく、飛び抜けた才能に恵まれていた。遺伝子の中に、生まれつきの才能を有していたんだ。常にボールを追いかけ、試合を決める選手になりたがった。とても集中して、ピッチのどこにいようとも、変わらず懸命に頑張った。試合に出られないと、いつも落ち込んでいたね」

クラブの会長であるルイ・サントスは、1993-94年シーズンの試合で起こった、面白い逸話を教えてくれた。当時、この島で強豪だったカマチャとの対戦である。ハーフタイムの時点で、アンドリーニャは0-2で負けていた。「ロナウドはとても取り乱していて、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のように泣いていた。でも後半にピッチに出ると2点を奪って、チームを3-2の勝利へ導いたんだ。あの子は本当に負けず嫌いだった。どんな試合でも勝ちたがって、負けると泣いていたね」

「そういうわけで、あの子は『泣き虫』とあだ名をつけられたんです」とドロレスは説明する。「チームメートがパスをしてくれなかったり、自分や誰かがシュートやパスをミスしたり、チームが自分の思いどおりにプレーしないと、すぐに泣いて怒りました」。

もう一つ頂戴したあだ名が「アベリーニャ」(ポルトガル語で『小さな蜂』の意)だった。決して止まることがなかったからである。忙しい蜂のように、いつもジグザグにピッチを走り回っていた。

「ロナウドのような選手は、むらがあるものだ」とルイ・サントスは付け加える。「だけど突然目覚めたら、あの子はスーパースターだったと気づくのさ。これまで見た、どんな子供のプレーとも違った」。

残念ながら、アンドリーニャはリーグでも最も弱いチームの一つだった。マリティモやカマラ・デ・ロボスやマンチコといったチームと対戦すると、1点も取れずに負けたりした。負けると分かっていたから、ロナウドはプレーしたがらなかった。だが、彼の父親は家に帰ってくると、息子を元気づけてユニフォームとスパイクを身につけさせて、ピッチの上のチームに合流させた。

諦めるのは、弱虫がすることだ。小さなロナウドは、この教えを決して忘れなかった。