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Legacy England 2 GFXGetty/GOAL

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「Football's coming home」――イングランドにフットボールを取り戻した1966年の英雄たち【LEGACY】

イングランドでは1996年以降、「フットボール・カミング・ホーム(Football Coming Home)」という言葉が頻繁に語られてきた。これは、インディーバンド「ザ・ライトニング・シーズ」がコメディアンのフランク・スキナーとデヴィッド・バディエルとタッグを組み、EURO1996の開催前に「スリー・ライオンズ」をリリースしたことに端を発する。イングランド人にとって、この曲は彼らの皮肉を交えたユーモアを称えるものであり、何十年にもわたる失望の末にあってもなお、楽観的であり続けることの意義を歌ったものである。 しかしそれ以外の国々にとっては、これは英国人の傲慢さと特権意識の表れであり、単にフットボールを発明したという理由だけで、世界一人気のあるスポーツを自分たちが独占しているかのようにも映っている。

2018年ワールドカップでイングランドが準決勝に進出した際も、国内では「It’s Coming Home(優勝トロフィーが故郷に帰ってくる)」との熱が高まった。しかし、これをクロアチアは巧みに利用している。「『フットボール・カミング・ホーム』を見て、『ああ、でもまずは俺たちと戦わなきゃいけないんだぞ』と思ったよ」とイヴァン・ラキティッチは振り返る。3年後、ウェンブリーで行われたEURO2020決勝でイングランドがPK戦の末にイタリアに敗れた際、アッズーリのベテランDFレオナルド・ボヌッチもカメラに向かって叫んだ。「(フットボールは)ローマにやってくるぞ!」と。

2024年、イングランドはスペインに敗れ、2大会連続EURO決勝で敗退した。イングランドが歴史上獲得した主要タイトルは、1966年に自国開催で制したワールドカップただ1つ。これはイングランドの最高の瞬間、すなわち、悪名高い傲慢さを捨て去り、勝利に必要なものを理解したからこそ成し遂げられた勝利の物語である――。

  • Sir Alf RamseyHulton Archive

    灰の中から

    フットボールを発明し、世界の多くの地域に広めた国であるにもかかわらず、イングランドは当初ワールドカップに対してほとんど関心を示していなかった。FIFAから脱退していたため、なんと最初の3大会には出場していない。それでも1950年大会に間に合うようにようやくFIFAに再加盟し、優勝できると確信して臨んだ。 しかし実際には、アメリカに0-1で敗れるという史上最も屈辱的な敗北の一つを喫し、初戦で早々に帰国することとなっている。

    さらなる屈辱が訪れたのは3年後、ウェンブリーでハンガリーに3-6と完敗した時だった。「かつての王者であるイングランドは、今や弟子たちから学ぶべきかもしれない」。フェレンツ・プスカシュは得意げに語った。その日は、史上初のバロンドーラーであるスタンリー・マシューズに加え、あのアルフ・ラムジーもピッチに立っていた。彼は不運にも、あのアメリカ戦の惨敗に続く屈辱をピッチで味わっている。

    ハンガリーに「世紀の試合」で敗れてから10年後、ラムジーはイングランド代表監督に就任した。FAにとって、チームの再建を担うにふさわしい人物は他にいなかった。ラムジーには以前、3部リーグに所属していたイプスウィッチ・タウンの指揮を執り、チームを1部リーグ優勝へと導いた実績があった。彼のチームにはスター選手はいないものの、勝利への執念と、そのための方法を知っていたのだ。

    ラムジーはその手腕を代表チームにも持ち込んだ。就任時、「スタンリー・マシューズやトム・フィニーのような偉大な選手を擁していた時代でさえ、厳格な戦術があればチームはもっと良くなっていたはずだ。どんな戦術も、選手の長所と短所に合わせなければならない」と固く誓っている。

    すると1966年のワールドカップでは、ポルトガルとの準決勝の83分まで無失点を守り抜いた、岩のように堅固な守備を基盤に大会を勝ち抜いていったのだ。彼の現実主義を最もよく示す例は、決勝戦であのボビー・チャールトンにフランツ・ベッケンバウアーのマンマークを命じたことだろう。

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  • FOOTBALL-WORLD CUP-1966-ENGLAND-TEAMAFP

    ウィングレス・ワンダーズ

    ラムゼイは選手たちに対して厳しかった。しかし、選手たちは彼に絶大な忠誠を誓っていた。

    「ピッチの上では、アルフ・ラムゼイのために命を捧げてもよかった」(アラン・ボール)

    「必要とあれば、彼(ラムゼイ)のためにそこで死ぬ覚悟でピッチに立った」(ノビー・スタイルズ)

    過去4回のワールドカップで決勝トーナメントに進出したのは2回のみ、ベスト8を超えることは一度もなかったにもかかわらず、ラムゼイは早い段階で「我々はワールドカップを勝ち取るだろう。我々には能力があり、決意があり、強さがある。我々には個性があり、気質があり、そして気性の良い選手たちがいる」と宣言した。

    その大胆な予言は、1964年にリオデジャネイロで開催された「リトル・ワールドカップ」と呼ばれる大会での惨憺たる結果によって試されることとなる。イングランドはブラジルに1-5で大敗し、ポルトガルやアルゼンチンも参加したミニリーグで最下位に終わった。しかし大会開催まで1年を切った頃、サンティアゴ・ベルナベウで行われた親善試合でスペインを2-0で下すと、自信は高まっていった。それ以降、ラムゼイ率いるチームは「ウィングレス・ワンダーズ(翼なき驚異)」として知られるようになり、伝統的なウインガーを排して中盤を厚くする4-3-3のフォーメーションを特徴としている。

    さらに重要なのは、イングランドがスペインに勝利した際、当時のスター選手であり歴代最多得点者だったジミー・グリーブスが病気で欠場していたことだ。グリーブスはイングランドフットボール界における地位ゆえに事実上外せない存在だったが、マドリードでのこの結果は、監督の指示よりも自分のルールに従う傾向のある選手がいなければ、むしろワールドカップを勝ち取れる可能性が高いという確信をチームに与えた。1966年のグループリーグ第3戦、フランス戦でグリーブスが脛を負傷したことは、ある意味で運命だったのかもしれない。

  • World Cup HeroHulton Archive

    ピクルスの奇跡

    1966年のワールドカップは、開幕前から2つの大事件に見舞われた。最初の事件は、FIFAがアフリカ大陸に直接出場枠を与えないと発表したことを受け、アフリカ諸国がボイコットを宣言したこと。さらにその後、ウェストミンスターの展示ケースからジュール・リメ杯が盗まれたのだ。

    大規模な警察の捜査が展開されたが、結局トロフィーを発見したのは刑事たちではなく、ピクルスという名の犬だった。この白黒のコリーは、飼い主のデイブ・コーベットとロンドン南部を散歩中に車のそばにある小包の匂いを嗅ぎつけ、開けてみると中には輝くトロフィーが入っていた。彼は直ちにそれを地元の警察署に持ち込んだ。イングランドが優勝を果たした際、コーベットと彼の賢い愛犬は祝賀ディナーにも招待されている。

    後の大会でも見られる特徴だが、イングランドはウルグアイとの慎重な0-0の引き分けで精彩を欠くスタートを切った。しかし、2戦目のメキシコ戦では活気を取り戻し、ボビー・チャールトンが代名詞とも言える強烈なシュートを決め、ロジャー・ハントが押し込み2-0で勝利した。

    ハントの2得点によりフランス戦も2-0で勝利し、準々決勝でアルゼンチンと対戦することになる。この試合は、ワールドカップ史上最も激しい試合の一つとして今も記憶されている。フォークランド紛争が始まるのはまだ16年先だったため、両国間に政治的な確執はなかったが、アルゼンチン側は試合開始の数日前から不当な扱いを受けていると感じていた。

  • Rattin leaves the fieldHulton Archive

    「あいつとシャツを交換するな!」

    準々決勝の主審は代表団会議で決定される予定だったが、アルゼンチンの代表団は遅れて到着した。ようやく到着した際、彼らはドイツ人のルドルフ・クライトラインが試合を裁くことを告げられた。さらに、もう1つの準々決勝である西ドイツ対ウルグアイ戦に英国人の主審が任命されたことで、彼らの疑念はさらに強まった。この試合では、物議を醸す判定が3度あった末、ドイツが4-0で勝利したている

    前半にクライトラインと口論して退場処分を受けたアルゼンチンのキャプテン、アントニオ・ラティンは「審判は完全に偏向していた。すべてをイングランドの有利になるように判断した。彼は最初から私を退場させようとしていたと思う」と後に振り返る。ラティンは7分間ピッチを離れようとしなかったが、ようやく退場を決めた際、コーナーフラッグに掲げられたユニオンジャックをねじり、観客を罵倒し始めた。すると観客は彼にビール缶を投げつけている。

    イングランドは消耗戦かつ極めて攻撃的な試合展開で10人のアルゼンチンを疲労させ、グレブスに代わって大会初出場を果たしたジェフ・ハーストがマーティン・ピーターズのクロスからヘディングで決勝点を決めた。

    試合終了の笛が鳴るとラムゼイは急いでピッチに駆け込み、ジョージ・コーエンがアルベルト・ゴンサレスとユニフォームを交換するのを阻止した。「あいつとシャツを交換するな!」、ラムゼイはゴンサレスを「獣」と罵倒している。アルゼンチンの選手たちがイングランドのロッカールームに押し入ろうとし、ドアに椅子を投げつけたことで、事態は激化していった。その後、ロベルト・フェレーロが審判に襲いかかり、チームメイトのエルミンド・オネガはFIFA副会長の顔に唾を吐きかけている。

  • 1966 FIFA World Cup - Final - England V West GermanyHulton Archive

    歴史に残る決勝戦

    そうして勝ち進んだ準決勝、相手は大会得点王のエウゼビオを擁するポルトガル。前ラウンドほど激しい試合ではなかったが、イングランドはピッチ上で圧倒的な存在感を示した。特にボビー・チャールトンは前後半にそれぞれ得点を挙げ、2点目はハーストからの折り返しを押し込んだものだった。チャールトンの2得点の間には、ゴードン・バンクスがエウゼビオのシュートを驚異的なセーブで防いでいた。一方でピッチの反対側では、ボビーの兄ジャックがポルトガルの得点を阻止するために意図的なハンドを犯した。エウゼビオにPKを決められたものの、西ドイツとの決勝戦へと進出している。

    当時、第二次世界大戦終結から21年が経過していた。あの戦争は選手たちの記憶に鮮明に残っているわけではなかったが、忘れることは難しかった。例えば、スタイルズはマンチェスターへの空襲の最中に生まれ、ピーターズは疎開していたがその間に妻の家族がブリッツ(ロンドン大空襲)の爆弾で命を落としている。 ハーストは回想する。

    「好きか嫌いかに関係なく、過去はそこにあったんだ。我々にとっても、彼らにとっても、そして観客にとってもね」

    ハーストの義父はノルマンディー上陸作戦に参加した空挺部隊員であり、彼は西ドイツとの一戦を前に「あのストライカーがハットトリックを決めるだろう」と語っていた。しかし、イングランドのスタートは苦しかった。レイ・ウィルソンがヘディングでクリアしようとしたボールがヘルムート・ハラーの足元に直撃し、西ドイツが先制点を挙げたのだ。

    それでもイングランドは慌てることなく、6分後にはあのハーストがボビー・ムーアのFKからヘディングシュートを決め、最初の1点目をマークする。 その後、「ゴースト」の異名を持つピータースが追加点を奪い、イングランドは勝利目前だった。しかし89分、ペナルティエリア内での激しい混戦の中でヴォルフガング・ウェーバーがボールを押し込み、ドイツが同点に追いついている。

  • Moore Leads TeamHulton Archive

    英雄の誕生

    延長戦前の短い休憩時間、ラムゼイはシンプルだが極めて効果的なメッセージを送った。「90分で彼らを倒したんだ。さあ、あと30分でまた倒せ」と。

    するとイングランドは、101分にハーストのゴールで再びリードを奪った。しかしこのゴールは永遠に論争の的となっている。彼の強烈なシュートがクロスバーを直撃し、ゴールライン上に転がったからだ。 スイス人主審ゴットフリート・ディーンストは、ソ連の副審トフィク・バラモフと協議した上でゴールを認めた。今日に至るまで、世界中の多くの人々はボールがゴールラインを越えていなかったと信じている。ハースト自身は地面に倒れていたため確認できなかったが、ボールのすぐそばにいたハントの言葉を信じている。

    「ロジャーは確信していた。そうでなければ、背を向けるのではなくボールを追いかけていたはずだ。本能がゴールだと告げていた。それだけで私には十分だったし、これからもそうだろう」

    そうして迎えた120分、ムーアのアシストから生まれたハーストの3点目については疑いの余地はない。ハーストが決勝ゴールを叩き込んだ際のケネス・ウォルステンホルムの実況は、英国の伝説として語り継がれている。

    「さあ、ハーストがやってくる。ピッチには何人か人が入っているが、彼らはもう終わったと思っている。今、終わったのだ!」

    イングランドのワールドカップの英雄たちは、不朽の存在となった。アップトン・パークの外にはウェストハムの「三銃士」であるピータース、ムーア、ハーストの像が建てられた。2000年に改修されたウェンブリー・スタジアムが開場した際には、ムーアの胸像も追加された。バンクスの像はストークに、ラムゼイの像はイプスウィッチにそれぞれ設置されている。

  • TENNIS-GBR-WIMBLEDONAFP

    英雄たちのその後

    しかし、この国の最大の栄光を築いた立役者たちが、常に手厚く扱われていたわけではない。イングランド代表の選手たちには1人あたり1,000ポンド(現在の価値で16,000ポンド相当)のボーナスが支給された。対照的に、2022年ワールドカップで優勝したアルゼンチン代表の選手たちは1人あたり50万ドルのボーナスを受け取っている。引退後、多くの選手はフットボールとは無関係の一般職に就いた。ハーストは保険業界に入り、ウィルソンは葬儀屋となった。

    一方で決勝戦に出場した選手のうち8人は、1970年のメキシコ・ワールドカップにも出場している。しかし、準々決勝で再び対戦した西ドイツに2-0から延長戦の末に2-3で敗れ、リベンジを許している。これがこの世代の選手たちにとっての衰退の始まりとなった。イングランドは1974年のワールドカップ予選を突破できず、ラムゼイは解任されている。

    そして、キャプテンのムーアは1993年、わずか51歳で腸がんによりこの世を去った。ワールドカップの2年前に精巣がんと診断されていたことが明らかになったが、彼は最も親しい家族以外には誰にも打ち明けていなかった。一方でラムゼイを含め、ジャック・チャールトンやボビー・チャールトンを含む6人の選手が認知症を患った。

    2023年にボビー・チャールトンが死去したことで、決勝戦に出場したチームで存命なのはハーストただ1人。あの決勝戦でハットトリックを達成した英雄は、2024年に心臓発作を乗り越えている。

  • FBL-EURO-2016-MATCH44-ENG-ISLAFP

    「Football Coming Home!!」

    イングランドは1978年のワールドカップ出場を逃し、1974年に続き2大会連続で出場を逃す結果となった。1982年のスペイン大会には出場を果たしたものの、グループリーグ第2戦で敗退した。

    しかし、苦難はこれで終わらない。1986年大会はディエゴ・マラドーナの「神の手」に、1990年大会では西ドイツにPK戦で敗れ、1994年大会は予選敗退。1998年大会は、あのデイヴィッド・ベッカムの退場劇でアルゼンチンに敗れた。2002年大会はデビッド・シーマンがロナウジーニョにループシュートを決められ、2006年大会はウェイン・ルーニーの退場とクリスティアーノ・ロナウドのウインクの後、ポルトガルにまたもやPK戦敗北を喫した。2010年大会ドイツ戦のフランク・ランパードの「幻のゴール」(おそらくハーストの物ゴールへの報いだろう)、2014年大会のグループステージ敗退、2018年大会は予想外に躍進もクロアチアに延長戦で敗れ、2022年大会はフランス戦でハリー・ケインがPKを空へ打ち上げてしまった。

    EUROにおける戦績も同じパターンを辿っている。1996年、2004年、2012年のPK戦敗退、2000年のグループステージ敗退、2008年の予選敗退、そして2016年のアイスランド戦での恥ずかしい敗退だ。ガレス・サウスゲートは、ラムゼイ以来初めてイングランドをEUROの決勝へと導いたが、2020年大会はまたもやPK戦の末にイタリアに敗北。2024年大会も決勝まで進んだが、スペインに完敗している。

    だが、サウスゲートとい歩んだ8年間で、イングランドはあの日以来手放していた自信と誇りを取り戻した。そして彼が繋いだ希望のバトンは、トーマス・トゥヘルというドイツ人指揮官に託されている。

    あの決勝戦から今年で60年。半世紀以上にわたって苦しみ続けてきたフットボールの母国は、本当の意味で「Football Coming Home!!」と叫ぶことができるのだろうか。