全員知ってる?メッシ、マラドーナ、ケンペスらアルゼンチン史上最高の20人

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Getty/Goal
アルビセレステと言えば歴史を作った2人の背番号10がいるが、この国はほかにも素晴らしい才能を持つ選手を何人も輩出してきた。

ワールドカップで2度優勝、そしてさらに3度決勝進出を果たした強豪アルゼンチン。まさにフットボール界のエリート集団だ。

それだけではない。ディエゴ・マラドーナやリオネル・メッシ、ガブリエル・バティストゥータと言った名前は、世界に名高いフットボールのアイコンでもある。

そんな数多くの名選手の中で、誰が最も偉大な一人なのか。『Goal』では今回、アルビセレステのユニフォームに袖を通した選手からトップ20を選出した。

(本リストは様々な要素をもとに選手を選出している。クラブや代表での成功、選手生命の長さ、パフォーマンス、サッカー界に残した影響度、その他全般的な能力、全てを勘案し、アルゼンチンフットボール史の中で際立った20人のスターを選び出した)

  1. ATTILA KISBENEDEK/AFP/Getty Images

    #20 20位 エルナン・クレスポ

    かつては最も高額なフットボールプレーヤーとして君臨し、モダンフットボールにおいては同胞のディエゴ・マラドーナだけが彼に並び称される存在だった。

    信じられない優雅さと可能性を秘めたストライカーとして、パルマ、ラツィオ、ミラン、インテルそしてチェルシーで絶大な人気を獲得した。

    ワールドカップに3度出場したほか、5つの異なるチームに所属しチャンピオンズリーグでゴールを決めた最初の選手でもある。インテル在籍中の2006年から2009年の間には3度スクデットを獲得した。彼は時にベストストライカーのリストから漏れることがある。だが彼がゴールを狙うとき、それを阻めるものはほとんどいない、それほど恐るべきゴールゲッターだった。

  2. Getty

    #19 19位 リカルド・ボチーニ

    ディエゴ・マラドーナがワールドカップのタイトルを獲ったがゆえに称賛されているとするならば、ともに名前を挙げるべき選手がいることは知っているだろう。

    インデペンディエンテの生ける伝説、リカルド・ボチーニは、アルゼンチンの背番号10の典型的な選手だった。アヴェラネダでのキャリアで、4つのリーグタイトル、5度のリベルタドーレス杯優勝、2度のインターコンチネンタルカップ優勝を果たすなど、歴史的にも成功を収めた一人だ。ボチーニがプレーした時代のアルゼンチン代表はマラドーナの登場で語られ、彼の活躍は覆い隠されてしまっている。だが、ボチーニとマラドーナは無二の親友でもあった。

  3. Getty Images

    #18 18位 ロベルト・アジャラ

    アルゼンチンフットボールといえば、名前が挙がるのは創造性豊かな天才、あるいはストライカーが多い。かつてバレンシアで活躍したアジャラは並外れて優れた能力を示し、国の名選手として記憶されている。アジャラは世界屈指のディフェンダーとして名を馳せ、代表キャップは115を数えてW杯に3度出場を果たしている。

    また、2000年代前半に一世を風靡したバレンシアでも重要な役割を果たし、ラ・リーガのタイトルを2度獲得し、UEFAカップも優勝。ロス・チェ(バレンシアの愛称)の1940年代以来の黄金期を謳歌した。

  4. Gabriel Rossi

    #17 17位 セルヒオ・アグエロ

    クラブでの優れたパフォーマンスを代表で披露できないことをしばしば批判されてきた。それでも彼のゴール前での輝きに疑いの余地はない。

    15歳のワンダーキッドとしてインデペンディエンテで活躍し、“クン”の愛称で親しまれた彼は、その後活躍の場をイングランドに移した。

    マンチェスター・シティでは200ゴール以上を決め、2度のプレミアリーグ優勝も経験。クラブ史上最高のストライカーに、エティハド・スタジアムのファンは心を奪われている。

    アグエロは現在30歳。彼のベストのプレーを見せられれば、アルゼンチンファンの心をつかみ、この順位を上げる可能性も残されている。

  5. #16 16位 アマデオ・カリーソ

    かつてのリーベル・プレートの背番号1は素晴らしい選手にとどまらず。そのポジションに革命をもたらした。

    それまでのゴールキーパーは、フォワードが攻め込んでくるのを待ち、それを制圧するという、ゴール前でのお決まりの役割だけが与えられていた。だがカリーソは飛び出して相手選手を阻止するというプレーを見せた。これは1950年代のフットボールにおいて、大きな転換となった。

    アルフレッド・ディ・ステファノやアンヘル・ラブルナの後方でプレーし、リーベルで7度の1部優勝に貢献。1964年には代表でW杯王者イングランドやペレ擁するブラジル、そしてポルトガルといった強敵を相手に3試合のクリーンシートを記録。リオ・デ・ジャネイロの地でネーションズ・カップを獲得した。

  6. Getty

    #15 15位 ハビエル・マスチェラーノ

    アルゼンチン代表最多キャップの持ち主で、過去10年以上にわたり、フラストレーションに苦しみ、そして成功を目前で逃し続けてきた代表のシンボルでもあった男だ。

    マスチェはアルビセレステのアンカーとして147試合に出場。3度のワールドカップ出場を果たし、2011年にメッシに譲るまではキャプテンマークを巻いていた。

    彼の才能は過小評価されるべきではないが、それ以上に代表における運動量、そして献身性は伝説的なものだった。

  7. #14 14位 アントニオ・ラティン

    イングランドサポーターからすると、2つの意味でよく知られた男である。1966年ワールドカップ準々決勝イングランド戦でのレッドカード、そしてその後ピッチを去ることを拒否したことだ。この時のアルゼンチン代表チームのことを、サー・アルフ・ラムジーは「獣」と表現した。

    しかしアルゼンチン人から、とりわけボカ・ジュニオルスのサポーターから見れば、このミッドフィールダーは歴代最高のレジェンドの一人で、疑いようのない情熱をピッチ上で示し、その少なくない能力をいかんなく発揮した。アルゼンチン代表では32キャップを数え、国内では最も恐ろしいMFという称賛を得ている。

    また、ボカを率いて1960年代に4度の1部リーグ優勝も経験した。

  8. Getty

    #13 13位 オレステ・オスマル・コルバータ

    アルゼンチンでガリンシャに相当する選手である。ラシン・クラブ、ボカ、そしてアルゼンチン代表でのその短く波乱に満ちたキャリアで、数多くの伝説を残した。

    1957年のコパ・アメリカ優勝の際には、彼を含む前線の選手たちは「汚れた顔の天使たち」と呼ばれ、青と白のシャツをまとった最も偉大なドリブラーとしてプレーした。

    アルコール依存症と深刻な対人トラブルによりラシンを離れ、ボカへと移籍したのはまだ26歳の頃だったが、すでに最も輝いた時期は過ぎさっていた。それでも「エル・ロコ(狂人)」が全力でプレーするのを見られた人は幸運だったと言える。

    2度のリーグ優勝に貢献したことを称え、ラシンは後にスタジアムに至る道の一つにこのスター選手の名前をつけた。

  9. René Houseman

    #12 12位 レネ・ハウスマン

    エスタディオ・モヌメンタルから道を挟んで数ブロックのスラム街に生まれたのはウラカンのアイドルだった。アルゼンチンの即興プレーを楽しむ伝統、そしてストリートサッカーの象徴として知られ、1978年にまさにそのスタジアムでアルゼンチンが優勝するのに貢献した。

    このウィンガーは2度のワールドカップに出場し、計4ゴール。また1973年にウラカンが1部リーグ優勝した時にはキープレーヤーとして活躍し、オスヴァルド・アルディレスや指揮官のセサール・ルイス・メノッティに栄誉をもたらした。

    その過酷な境遇やいたずら好きの性格から人々のヒーローとなり、長いアルコール依存症や病との戦いの末に2018年3月にこの世を去った時には、何千人もの人々がその死を悼んだ。

  10. Getty

    #11 11位 ハビエル・サネッティ

    20年間のキャリアの中で、ワールドカップにわずか1度しか出場していない。この事実がフットボールというものの冷酷さと不公平さを示している。インテルのアイドルであるサネッティは、サン・シーロでタイトルをほしいままにしてきた。出場試合数は800以上を誇り、現在は同クラブでディレクターとして働いている。

    “エル・プピ(男の子の意)“はアルゼンチン代表として145試合に出場。この数字を上回るのはハビエル・マスチェラーノただ一人だ。だが彼が第一線でプレーしていたにもかかわらず、2002年、そして2010年のW杯ではプレーしていない。だがこの不出場があってもなお、サネッティの素晴らしい20年のキャリアが過小評価されることはない。

  11. David Cannon/Getty

    #10 10位 フェルナンド・レドンド

    エレガントで繊細、そして並外れた才能を誇る。1990年代のスター選手の一人として、アルゼンチン代表、そしてレアル・マドリーの中盤を彩った。

    サンティアゴ・ベルナベウという神聖な地で、中盤の底に入ったこの選手は最も輝きを放った外国人選手の一人として記憶されている。

    その能力にもかかわらず、指揮官との関係に恵まれず代表でのキャリアは限定的だった。特にダニエル・パサレージャが指揮を執った1998年、彼は長髪を理由に代表チームから締め出された。

    代表キャップは29。だがマラドーナやバティストゥータ、クラウディオ・カニーヒアとともに記憶に残る選手と称賛されている。

  12. Web

    #9 9位 アンヘル・ラブルナ

    アルゼンチンフットボールの偉大な先人である。リーベルで“ラ・マキナ(機械)”と呼ばれる前線を形成、モヌメンタルのクラブに20年もの間在籍した。その間ホセ・マヌエル・モレノやアドルフォ・ペルデルネラ、フェリックス・ロストー、そしてディ・ステファノらとプレーし、9度のリーグ優勝を成し遂げた。

    ただ不幸なことに、ラブルナのキャリアのほとんどが、アルゼンチンがワールドカップに参加していない時期に重なるため、代表での活躍はあまりない。唯一のワールドカップは1958年でのこと。当時すでに39歳だった彼はオマル・シボリ、ウンベルト・マスキオ、アルフレッド・アンヘリージョらがイタリア代表を選択しアルビセレステが崩壊しかかっていた中、追加で招集された。

    それでも彼は代表で2つのタイトルを獲得している。1946年、そして1955年の南米選手権だ。引退後は愛するリーベルの指揮も執った。そして1983年、リーベルの監督を辞してから2年後にこの世を去った。

  13. Getty

    #8 8位 ダニエル・パサレージャ

    1978年W杯優勝時のインスピレーション溢れるキャプテンとして知られている。ピッチの内外を問わずとげとげしい性格で気難しいとされたが、その非凡な才能から友人のみならず敵からも尊敬を集めた。

    パサレージャは並外れたディフェンダーで、容赦のないタックルと、ディフェンダーと思えない得点能力を備えた。クラブでは447試合で144ゴール、代表でも70キャップで22得点を数える。

    そして彼はアルゼンチンで唯一のワールドカップ2大会の金メダルを手にした男でもある。ただし1986年は病気のため本大会ではプレーできず。そのため常にディエゴ・マラドーナと争っていた。

  14. Internet

    #7 7位 ウバルド・フィジョール

    30年のキャリアのほとんどをアルゼンチン国内で過ごし、わずかな期間アトレティコ・マドリーとフラメンゴでプレーした。

    それでも、クラブレベルで素晴らしい成功をおさめた。リーベルでは7度のリーグタイトル獲得、38歳の時にはラシン・クラブでスーペルコパ・スダメリカーナ優勝を果たした。そしてアルゼンチン代表でも英雄的存在で、同国最高のシュートストッパーとして称賛される。

    フィジョールは1974年、78年、82年にW杯に出場。その身体能力とアジリティーで母国開催での優勝に大きな貢献を遂げた。彼はまたPKストッパーとしても有名で、キャリア通算で25%ものPKをセーブしている。

  15. Getty Images

    #6 6位 ガブリエル・バティストゥータ

    このゴールゲッターは、リストにいる他の選手のようにオールラウンドな才能を爆発させたわけではない。その代わり、純粋な点取り屋としてフィオレンティーナやローマで活躍。その得点能力は他の追随を許さなかった。

    代表キャップ72で56得点という驚異の得点率で、2005年までアルゼンチン代表最多得点記録を持っていた。この記録を上回ったのはリオネル・メッシ以外にまだいない。

    “バティゴール”と呼ばれる彼は、W杯2大会でハットトリックを決めた唯一の選手だ。2つのコパ・アメリカを獲得したほか、2000-01シーズンにはローマで20ゴールを記録、歴史に残るスクデット獲得に貢献した。

  16. Getty

    #5 5位 オマル・シボリ

    母国と海外両方でスーパースターとなった稀有な存在。まずリーベルのレジェンドとなった。クラブのホームスタジアムであるモヌメンタルに彼の名前が付くほどにだ。

    信じられないことに、この類まれなストライカーは6シーズン連続でリーグタイトルを獲得した。最初の3シーズンはリーベルで、そして続く3シーズンはセリエAのユヴェントスで手にした。

    また、1957年にはアルゼンチン代表としてコパ・アメリカ優勝。チームの一員としてメジャー大会でアルゼンチン代表に栄冠をもたらした。

  17. Getty

    #4 4位 マリオ・ケンペス

    マラドーナ以前の時代、アルゼンチンでW杯の英雄と言えばマリオ・ケンペスだった。

    ケンペスはセサール・ルイス・メノッティが1978年大会で唯一国外から招集した選手で、バレンシアで活躍していた彼はすぐに指揮官の信頼を勝ちとり、大会6得点。うち2ゴールは決勝オランダ戦で決めたものだ。

    ケンペスはキャリア通算で300ゴール以上を決めている。出身地コルドバの巨大なスタジアムは現在、偉大な出身者である彼の名前が冠されている。

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    #3 3位 アルフレッド・ディ・ステファノ

    レアル・マドリー史上最高の選手の歴史をたどるつもりはない。だが、その世代における真のスーパースターで、マドリーで5年連続のヨーロピアン・カップ(現チャンピオンズリーグ)優勝という前人未到の快挙を成し遂げた。

    母国アルゼンチンでは数年しか高いレベルでプレーしておらず、すぐコロンビア、そしてスペインにわたった。それでもディ・ステファノは信じられない成功を成し遂げた。

    彼がモヌメンタルでプレーした間、リーベル・プレートではリーグ連覇を果たした。一方で代表ではわずか6ゴール。1947年の南米選手権での優勝とコパ・アメリカ準優勝を経験した。

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    #2 2位 リオネル・メッシ

    フットボールの歴史と真のワールドクラスという選手の定義を、その唯一無二の才能で書き換えてきた。彼のような選手を二度と見ることはできないだろう。

    しかし、アルゼンチン代表では、メッシは主要大会のトロフィーを掲げるというチャレンジに失敗し続けてきた。

    2019年のコパ・アメリカで彼が代表に復帰するなら、それはバルセロナの魔術師が代表でのタイトルという渇望し続けてきた目標を目指す最後のチャンスとなる。あるいは2022年のカタールまで勝利を待ち望み続けるのだろうか。

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    #1 1位 ディエゴ・マラドーナ

    衰え知らずのレジェンドは引退後もニュースを騒がせ続けているが、ピッチ上ではアルゼンチンフットボールに比類なき遺産を遺した。

    彼の英雄譚はW杯1986年大会で紡がれ、特にイングランド戦の2ゴール目は決して忘れることができない名シーンだ。この大会で彼はアルゼンチン史上最高の選手としての地位を手にした。一方で、1980年代後半、ナポリにスクデットをもたらしたことで、ここでもアイドルとなった。

    アルゼンチン最高の背番号10はメッシとマラドーナどちらか、という永遠のテーマがある。どちらも間違いなくレジェンドであるが、マラドーナはW杯優勝というアドバンテージがあり、一歩抜きんでていると言えるーー。少なくとも、今のところは。