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サー・マット・バスビーの教訓

「我々がここで苦しい時期にあった時、クラブは私を支えてくれ、スタッフ全員も私を支えてくれ、選手たちも私を支えてくれたということを言っておきたい。君たちのこれからの仕事は我々の新しい監督を支えることだ。それが大事だ」

サー・アレックス・ファーガソンが過去26年半にわたってオールド・トラフォードに築き上げた帝国の規模と成功度を考えれば、彼が引退後もチームの近くに残り、クラブのディレクター、アンバサダーとしてその知識を提供するのは当然のように予想されていたことだった。だからこそ、マンチェスター・ユナイテッドの監督としての彼の最後の仕事が、その後任選びであるのは完璧に道理にかなっていた。新任監督にはファーガソンの仕事を継続できる能力が求められるであろうし、彼と一緒に仕事をできる我の強さも必要だった。フランスではパリ・サンジェルマンのカルロ・アンチェロッティ監督にも打診があったとささやかれたりもしたが、有力な候補が最初から2人しかいないことは明らかだった。最終的には、ジョゼ・モウリーニョとの激しくも短いラブストーリーよりは、デイビッド・モイーズのより安定した長期志向に軍配が上がる形となった。

自身の後継者を操り、表舞台を退いた後も強い影響力を行使し続けるというのは新しい概念ではない。平安時代末期の日本の天皇家では100年以上にわたって行われていたことだ。引退して出家しながら国政を支配する院政のシステムにより、何人もの天皇たちが退位し、その後に自身の権力の座を安定させ堅固なものにしていった。1087年に息子の堀河天皇に譲位することで院政の慣行を確立させ、その後1129年の死去まで42年間にわたって天皇家の家長として実権を握り続けた白河上皇の業績に並ぶためには、ファーガソンは113歳まで生きなければならないということになる。だが、ユナイテッドがこの手法をサッカー界に持ち込むことの危険性を理解するためには、遠く日本の平安時代にまで目を向けなくとも、より身近なところに具体例を見つけることができる。

ユナイテッドが、過去の偉大な監督であるサー・マット・バスビーの影から抜け出すためには長い時間を要した。1986年にファーガソンが就任するまでかかったと考える者が多いだろう。第二次大戦によるリーグ中断後の1945年にチームを指揮し始めたバスビーは、8人の「ベイブス」の命を奪った58年のミュンヘンの悲劇を辛うじて生き延びてチームを再建し、その10年後には熱望していた欧州カップのタイトルを獲得。69年に監督を引退した。

だが、彼はその後もオールド・トラフォードの通路や、さらには練習場のタッチライン際にまで、ゼネラルマネージャーとして姿を見せ続ける。このことは、直後の後任であるウィルフ・マギネスの仕事にその就任初日から影を投げかけることになった。33歳の若さだったマギネスだが、ストレスのあまり、70年12月に解任される頃までにはすっかり禿げ上がってしまった。チームはその時点でファーストディビジョンの18位に位置していた。

マギネスの次の正式な監督としてフランク・オファレルが71年6月にやって来ると、彼にはスタジアムの廊下奥の小さな執務室が当てがわれる。バスビーが、「監督」とドアに記された大きな部屋をまだ明け渡さなかったためだ。レスター・シティから来たオファレルは、自分自身の権威を強調する必要性に気がついていたためこれを拒否。それでも、バスビーは依然として彼に欧州制覇をもたらした選手たちとの緊密な関係を維持していたため、オファレルは非常に仕事をやりにくくさせられることになった。

2011年に『デイリー・テレグラフ』が行ったインタビューの中で、オファレルは次のように述べている。

「彼はいつも、どこか選手たちの目に入るところにいた。ある試合の後で、彼は私にボビー・チャールトンを外すべきではなかったと話したことがあった。もちろん彼はチャールトンにも同じ事を言っていた。チャールトンは落ち込んで愚痴ばかり言いながら歩いていたからね…。また別の時には、彼はマーティン・バカン(オファレルが最初に獲得した選手)にすべての失点の責任があると言ってきたが、明らかに彼の失敗ではなかった。バスビーは邪魔をしていた」

オファレルも1シーズン半しかもたなかった。クラブはその後任として再びスコットランド路線に回帰したが、トミー・ドハーティもチームの腐敗を食い止められず、ユナイテッドは1974年に2部リーグに降格してしまう。ウェンブリーでのチャンピオンズカップ決勝で、ベンフィカに4-1の見事な勝利を収めてからわずか6年後のことだった。

だが、今日のユナイテッドファンにとって幸いなのは、ファーガソンが決してかつての師の過ちを繰り返そうとしない姿勢を早くも見せていることだ。攻撃的なサッカースタイルや規律の重視、若手選手の育成などバスビー以来の伝統を踏襲し、のちにクラブ会長となり94年に死去したバスビーとの間で密接な関係を築いていたにもかかわらず、である。実際のところ、バスビーが図らずも後任監督たちを罠に陥れてしまったのは、彼が残したユナイテッドのメンバーが年を取って疲れ果てた状態にあったところに端を発していた。対照的に、ファーガソンは自身の最後の数年、数カ月の間にチームの未来に向けての基礎を敷き続けてきた。フィル・ジョーンズやダビド・デ・ヘアといった選手を獲得したり、ラファエウ・ダ・シウバやトム・クレバリーといった選手たちを成長させたり、さらには20歳のウィルフレッド・ザハを来シーズンにクリスタル・パレスから獲得する取引を成立させたりといったものだ。

同様に、ファーガソンはこれから身を引き、モイーズが自分自身で仕事をできるようにしなければならないことを理解している。50歳のモイーズはエヴァートンでの11年間で非常に高い評価を得てきた。選手たちからの尊敬を集めていることだけでなく、正確な戦術意識や、きわめて限定された規模の投資で組み立てられたチームから最大限の力を引き出す能力への評価である。もちろん、様々な懸念もあるだろう。欧州での大会やタイトル争いの経験が不足していること、移籍市場におけるある種の決断力のなさ、あるいはストライカー起用に関しての完璧とは程遠い実績といったものだ。ユナイテッドが成功を継続していくための鍵は、モイーズが仕事開始の時点で自身に欠けている分野に関してファーガソンの豊富な知識に快く頼ることができ、それでいてファーガソンからのプレッシャーの脅威にさらされないような効果的な関係を築き上げることができるかどうかにあるだろう。


文/ベン・メイブリー(Ben Mabley)
英・オックスフォード卒、大阪在住の翻訳者・ライター。『The Blizzard』などサッカー関係のメディアに携わる。今季は毎週火曜日午後10時よりJスポーツ2『Foot!』にてプレミアリーグの試合の分析を行う。ツイッターアカウントは@BenMabley

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