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明確化への固執で曖昧は許されず

トッテナム・ホットスパーのティム・シャーウッド監督は、アウェーでのチェルシー戦で選手たちが「降伏」を余儀なくされたと嘆く一方で、0-4というスコアに対する自分自身の責任に関してはほとんど何も口にしなかった。だがいくら嘆いてみたところで、今週のFoot! TUESDAYで注目の一戦として取り上げたこの試合が、60分の時点で勝負としては実質的に決まってしまったという事実に変わりはない。サンドロが足を滑らせてデンバ・バにゴールを許さなかったとしても、ヤン・フェルトンゲン、ウーゴ・ロリス、カイル・ウォーカーからプレゼントを受けたバが立て続けの2点目を決めなくとも、わずかに優位に立てていた前半の戦いぶりをハーフタイム後にも取り戻すためのプランBをシャーウッドが準備できていたとしても同じことだ。ユネス・カブールがサミュエルー・エトーを倒してレッドカードを受け、その結果得たPKをエデン・アザールが決めた時点で、単純にアウェーチームが反撃する術はなくなってしまった。

すぐに感じたのは、退場は厳しすぎたという思いだった。決して接触がなかったわけではなく、PKの判定に疑問を挟めるほどではなかったとはいえ、それほど強い接触だったわけでもない。チェルシーが素早く攻撃に転じたことで、必要な時間を得られたエトーはアザールのクロスに対して前に入り込むことができ、哀れなカブールはその背後から突っ込んで行くことしかできなかった。解説を務めていた元スパーズFWのクライブ・アレン氏は、エトーがシュートを打つ前にはワンタッチが必要だったはずだと説明を試みていたが、10人になって望みを絶たれたトッテナムの試合が終わってしまったという落胆の思いはあろうとも、判定自体が厳密に不当だと言い切ってしまうのは難しかった。マイケル・オリバー主審が望むと望まざるにかかわらず、彼が判定を下すために必要だった材料は、エトーが明らかなゴールチャンスを阻まれたのかどうかという一点のみだった。試合の文脈も、審判の自由裁量や良識も入り込む余地はない。

こういった状況は主に、判定の明確化が定期的に求められてきた結果の産物だ。過去25年間にわたって、テレビとインターネットがサッカーの放送を改革していく中、選手の負傷や不当な試合結果につながりかねないような違反を取り締まるための厳罰化という流れが常にあった。それ自体が良いことであるのは疑いようがない。だが疑問が残るような事例に対し、一方ではメディアから、他方では”被害を受けた”選手やクラブからの尋問が繰り返され、判定の一貫性への要求は強まる一方だった。そのためには曖昧さのない、白か黒かの定義が必要となってくる。結果として生まれたものが、全48ページの「サッカー競技規則」に対して77ページの巨大な附則という形で追加された「競技規則の解釈と審判員のためのガイドライン」だ。第12条「ファウルと不正行為」は競技規則の中でもすでに4ページに及ぶが、附則での注釈にはさらに14ページを要している。

毎年改定される競技規則のあらゆるニュアンスやその解釈、ガイドラインを完全に把握するというのは審判たちにとっても困難な仕事であり、選手たちや監督たちやメディアはその変化に付いていけないことも多いほどだ。だが、規則の文章量がいかに増大しようとも、ピッチ上で起こる可能性を想像し得るあらゆる個別のシナリオを包含するのは明らかに不可能なことだ。一方でその規則の存在そのものが、さらなる根本的な問題ももたらしている。審判が人間であることを忘れさせてしまうという問題だ。

一例として、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンのベン・フォスターのケースを見てみよう。土曜日のマンチェスター・ユナイテッド戦で、フォスターは前半終了間際にペナルティーエリアを2、3歩飛び出してボールを手で扱った場面があった。彼に非があったことは明白だが、悪意があったというよりは、不器用なプレーによるものだった。実際この試合の中でも、彼がボールの軌道を読み違えてしまったことはこの場面を含めて2、3回は見られた。それでも、すぐ近くにロビン・ファン・ペルシがいたことを考えれば、フォスターがキックを空振ったとき、ボールが彼の手に当たらずにそのままの軌道を進んでいたとすれば、ユナイテッドに決定的な得点チャンスが訪れていなかったとは言い切れない。

スピードのあるプレーの中での出来事だったとしても、ジョン・モス主審と彼のアシスタントがこの場面を見逃したとは考えにくい。だが、これまでに必要だと見なされてきたルールの明確化のおかげで、審判団には2つの極端な選択肢しか残されていなかった。違反を「見て」レッドカードを提示し、勝負を決定づけてしまうと同時に、GKの出場停止処分も受けるバギーズの残留への望みにさらなる痛手を加えるというのが一つ。あるいは何の違反も「見ない」というのがもう一つだ。フォスターとしてみれば、これほどの小さなミスの文脈の中では、前者はあまりに厳格で重すぎる処分となってしまう。ガーナ戦でのルイス・スアレスのハンドとはまったく事情の異なるケースだ。そう考えれば後者の方が、たとえ判定そのものは正しくなかったとしても、発生した物事の規模に見合う公正な判断により近いと感じられた。

国際サッカー評議会は今月、1つのファウルがPK、レッドカード、出場停止で罰せられる「三重苦」ルールの見直しの再検討が必要だとするUEFAからの請願を拒絶するという近視眼的な判断を下していた。評議会はFIFAからの4名とイギリス4協会から各1名の計8名で構成されるが、その一人であるスコットランドサッカー協会代表のスチュワート・レーガン氏は次のように説明している。「我々はかつてのような状況に立ち返りたいとは望んでいない。一部のGKが、退場にならないなら単純に相手FWをやっつけてしまって構わないと分かっていたような状況だ」

だがここにも、白黒を明確化することへの強迫観念が現れている。ある一定の範囲に含まれるようなファウルが、すべて同じように罰せられるという規則は必ずしも必要ではないのではないか? レーガン氏の例であれば、すべてのGKを退場にするか、まったくどのGKも退場にしないのかのどちらかでなければならないのだろうか? 競技規則第12条の附則内における解釈では、「不用意な」ファウルと「無謀な」ファウルは区別されている。前者は「競技者が相手に挑むとき注意や配慮が欠けていると判断される、または慎重さを欠いてプレーを行うことである」、後者は「競技者が、相手競技者が危険にさらされていることをまったく無視して、または結果的に危険となるプレーを行うことである」と規定される。これはピッチ上の別の場所において、イエローカードを出すかどうかを決定するための区別だ。だが、決定機を阻んだ違反行為にイエローとレッドのどちらを出すかの決定にも同じ区別を適用してはどうだろうか?

キーポイントとなるのは、グレーゾーンは必ず発生するという事実だ。だが白か黒かに固執しすぎるあまり、審判は文脈に応じて適切な答えを出すような人間的な自由裁量を否定されてきた。オリバーであれモスであれ、自分自身で試合を読むことが認められ、それぞれカブールとフォスターに対して笛を吹きながらもイエロー提示やカード無しにとどめられたとすれば、試合はより満足のできる結末に向けて続行されていたかもしれない。無矛盾性への固執は、より極端な矛盾を生んできたに過ぎない。だからこそ改めて、「審判の判断のもとで」という一言を、あらゆる規則やガイドラインの重要なキーワードとするべきときだ。


文/ベン・メイブリー(Ben Mabley)
英・オックスフォード卒、大阪在住の翻訳者・ライター。『The Blizzard』などサッカー関係のメディアに携わる。今季も毎週火曜日午後10時よりJスポーツ2『Foot!』にてプレミアリーグの試合の分析を行う。ツイッターアカウントは@BenMabley

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